ちゅるゆーかの頭の中を晒すブログ

ちゅるゆーかの頭の中

出会わなければよかった人などないと笑います。

松本侑子氏の赤毛のアン

1993年集英社松本侑子氏訳「赤毛のアン」を読み終わりました。
訳注が充実していて、色々な言葉の解説、出典が豊富で満足感が高いものでした。村岡花子氏の訳では省かれている部分も訳されているので、少し不思議に思っていたところや不自然だと思っていたところも納得出来ました。
特に素晴らしいと思ったのは、風景描写の美しさ。
こんなにプリンス・エドワード島やグリーン・ゲイブルズから見える景色は美しかったのかと、アンが島や家を愛していた理由が良く分かりました。


私なりの、村岡花子氏訳、松本侑子氏訳の比較です。


松本侑子氏訳
・美しい風景描写
・充実した訳注
・全文訳なので、あれ?と思う部分がない
村岡花子氏訳に比べ、マシューの存在感が大きい気がする


村岡花子氏訳
・とにかく面白く、読みやすい
・ぐいぐいと読者を引っ張っていき、先へ先へと読ませる筆力
・アンだけでなくマリラが魅力的
・マシューの愛の深さが、根底に漂っている感じがする



同じ作品のはずなのに、マシューの存在感が違う気がするのはなぜなのでしょう。
登場回数が少なく思えるもののマシューの愛が全体を通して漂っている村岡花子氏訳、マシューが要所要所で存在感を発揮する松本侑子氏訳。
訳者によって印象が違うものになるのがとても良く分かりました。



松本侑子氏訳を読んで良かったのは、何よりも、訳者あとがきで、私の言いたかったことと不満だったことへの答えが書かれていたことです。

二冊めの「アンの青春」以降、作品の筋書きはともかく、アン自身の魅力は大きく損なわれていく。(略)
赤毛のアン」でのアンは、聡明で、誇り高く、それでいて心優しくて、夢や憧れを大切にする少女だった。(略)
しかし、アンは最後に、(略)平凡な女になる。女は個性や自我を捨てなければ大人になれないとでも言うように…………。アンの家庭は、もちろん不幸ではない。しかしその平穏な家庭の陰で、アンは、どこかしら憂うつに沈んでいる。「赤毛のアン」のアンは、心弾むような喜びに満ち溢れていたのに、その輝きはどこにもない。
アンをこのように変貌させたのは、他でもない、モンゴメリである。
(略)
アン・シャーリーの憂うつは、まさに、晩年のモンゴメリの憂うつである。

4巻以降面白くなくなったアン・シリーズを読んで、私はモンゴメリを恨んでいました。あんなに想像力豊かで魅力的なアンを、平凡で心優しい欠点などない女性にしてしまったモンゴメリが、恨めしくて堪りませんでした。
夫を支え子どもたちを愛し、欠点など見当たらない皆に慕われる女性、なんてつまらなくて魅力を感じない大人になってしまったのかとアンをなじりたくなりました。あの燃えるような生命力はどこに行ったのかと悲しくなりました。

けれど、当時の女性の置かれた立場や押しつけられたジェンダー観に縛りつけられていたモンゴメリを思うと、心から哀しく思います。
アン・シャーリーもその犠牲になってしまった。
そして現代もそうではないと言えるでしょうか。


誇り高く活発な女性が、今より先を生きるアン・シャーリーが、これから先の私たちの未来では自由に生きていけるようにしていきたいものです。



次はシェイクスピア不思議の国のアリス若草物語を読んで、さらに「不思議なキリスト教」(
著:橋爪大三郎大澤真幸)も再読しようと思っています。
世界が広がるのは楽しいです。


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