ちゅるゆーかの頭の中を晒すブログ

ちゅるゆーかの頭の中

出会わなければよかった人などないと笑います。

夏はスイカ

毎年夏が近付くと、我が家では両親がバタバタと冷蔵庫を整理していました。いつもは一杯の冷蔵庫ががらーんとなり、開けるとちょっと寂しい気分になる頃、泊まりに来た祖父母の車から大きなスイカが運び出されてきます。
それは子どもの私たちには到底持てないほどの大きさと重さで、色鮮やかに自分を主張していました。大き過ぎるため半分に割ったりソースやらジャムやらを移動したりして、それらが何とか冷蔵庫に納まったのを見ると、あと何時間かで食べられるんだと小躍りしたい気分になったものです。



祖父が庭で作るスイカはそれはそれは大きくて、それはそれは甘いスイカでした。(庭と言っても家が6, 7軒は建つほどの広さです。田舎ですから)

毎年毎年、そんなスイカを夏場になると毎日欠かさず食べていた私たち家族は、スイカを買って食べたことがありません。スーパーで横目に見ると小さなスイカに驚くような値段が付けられていて、『でもうちのスイカの方が大きくて甘いんだよなあ』なんて思って、それを品定めするおばちゃんがちょっと気の毒に思えたくらいです。

事実、例えばよその家庭でデザートとして出されたスイカは、どれもびっくりするほどうちのスイカとは違っていて。当時小学校で流行ったスイカは実は野菜だというやつ、よそのスイカはそうだけれどうちのは明らかにフルーツだよなぁと思っていました。



私たち家族は半分に切ったスイカをスプーンで食べるのが気に入っていて、真ん中の美味しい部分を巡って親子で仁義なき戦いを繰り広げていました。半分といっても大きなスイカだったので、家族4人でも食べ切れずに途中で諦めることもしばしばありましたが。

夏休みなんて朝食後、10時のおやつ、昼食後、3時のおやつ、夕食後といつでも食べていた気がします。夏にアイスのイメージが今でもないのは、スイカのお陰なのでしょう。



祖父が亡くなった時、あぁスイカが食べられない、と思いました。不幸者でしょうか。自分ではそうは思いません。

あのスイカがあんなに甘かったのは、確かに糖度も高かったのでしょう。けれど、孫の中でも私と妹にだけ甘かった、あの祖父がいなければきっとどんなスイカもあれほど甘くはならないのだろうと思います。



じいちゃん、たぶんあと70年くらい掛かるけど、私がそっちへ行ったらスイカが食べたいから作っておいてね。タイでもじいちゃんのより甘いスイカってないんだよね。
それから、命日なのにお墓参り出来なくてごめん。たまには、ばあちゃんの夢に出てあげたらどうですか。

弱さの恋人

私は、他人に弱みを見せたくない性格というよりは、他人に弱みを知られるのが怖いのです。それを見栄と人は呼ぶのでしょう。
故に気が強くて意地を張っているので強いと思われがちなんですが、定期的に鬱には陥るし自分に自信があるわけでもないし、弱みを見せたくないということはそれだけ弱みを抱えているということで。強くはないんです。



稀に、この人には弱い部分を見せても大丈夫かな、と思うこともあります。でも全て見せるのは怖いと感じてしまうんです。例えば見せてもいい部分が100とすると、それを50も見せたくないのです。10くらいまで。
その人を信じていないということではなくて、ただ、全部を知られてしまうことが怖いんです。



そんな風に他人にめったに弱みを見せない私なのですが、割と最近の話、
「ゆーかちゃん、最近弱すぎ」
と言われました。

私の中では、その人には弱い部分を見せても大丈夫かなって思えてきていたんです。でも、あぁこの人は強い私でいて欲しいんだなぁと思いました。弱い私は想定してないんだなぁって。
私にとって弱みを見せるというのはある種甘えなんです。頼りにしているということの裏返しで、私の弱い部分を受け入れて欲しいって言うわがままなんです。
だから、その人には重かったんだと思います。



で、気付きました。
私、恋人が欲しいです。
甘えられる人って言ったら恋人だよねっていう単純な思考なのですが。好きなだけ甘えられる人が欲しいです。

好きなだけ条件を並べていいよって言われたら、私より年上で関西弁で気を遣える人で、私の早口についてこれる上に次々と変わる話題についてこれて、話が面白い人で年下に説教をしなくて、細かいことにこだわらず眉の手入れをしていない人で、私のnoteアカウントを知らない日本人の男性を希望します。一つだけって言われたら、私の話についてこれる人ですかね。

あぁでも、一年以上休学期間が残っていてまだふらふらする予定なので、この期間はたぶん無理。当分わがままは言えそうにないですね。



でも、友達にすら弱みを見せるのは怖いと感じるのに、恋人という存在が出来たところで見せられるんですかね。自分でも疑問です。
とすると、私はどこで弱みを見せるのでしょう。


……ここだわ。恋人が欲しいという叫びが弱みでなくて何なのだ。新たな気付きを得ました。

月は昔は大きかったんだよ

あれは、小学何年生の頃だったでしょうか、おそらく3, 4年生だったと思います。月は、毎年地球から離れていっているのだと同じクラスだった物知りの男の子が言っていました。だから昔は月が今よりも大きかったのだと

人間が生まれたばかりの頃、月はずっとずっと大きかったのでしょうか。
その時私の頭の中に浮かんでいたのは、ものすごくものすごく大きな月を丘の上で見上げる人の後ろ姿。今の100倍も大きな月。
まさか、そんなに大きかったはずないよな、と思えたのはずっと後になってからでしたが、今でも、月が好きです。

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太陽よりも月が好きなのは、いつからでしょう。おそらく月が自分の力では輝けないと知った時からではなかったでしょうか。

あんなに大きいのに、星よりも大きく見えるのに、自分の力では光ることも出来ないなんて。月がなかったら地球に生命は誕生しなかったらしいですね。偉大なる月。それでも、自分の力では輝けないなんて、なんだか切なくないですか。ちょっと切なくて、だからこそ美しいんだと、理科の時間、月を想っていたような気がします。



今は便利なことに、スマホウィジェットとして月を表示してくれるアプリがあって、とても気に入っているのでホーム画面に大きく配置しています。

この月が欠けたり満ちたりするのを見ていると、毎日が流れていくんだなぁ、と実感できます。大学にいた時は、みるみる細くなり、みるみる太るスマホの中の月に焦りを覚えたものでした。

何より、月を見るとなぜだか落ち着くのです。



自分では輝けない月が好きです。満ちたことに驕らず、すぐに細まる月が好きです。真夜中に、月を見ながら歩くのが好きです。
月は私を見守ってなどいません。月はただそこにいるだけです。それで良いのです。

8キロの重み

お腹が空きました。しかし、これで痩せると言い聞かせて我慢です。
3月から18時以降食べないというダイエットを続けてます。



大学に通い出して、高校生の時と比較して16キロ体重が増えました。そこからストレスなく過ごしたのが良かったのか、何もしないのに3キロ痩せたのをきっかけに、ここで痩せなきゃ一生痩せない!と一念発起して始めました。これを最後のダイエットにしたいです。



ときっぱり書いた割には、ゆるーいダイエットなんですが。18時〜19時以降食べないだけです。出来れば18時まで、が難しければ18時半、それも難しければ19時。とりあえず、寝る時にお腹を空かせて寝るようにしています。それ以外は全然、制限なんてなし。間食もしっかりしてます。3食食べてます。運動、一切してません。
でも、体型はどんどん良くなっていっています。便通がものすっごく良くなりました。朝起きて体が軽い感じも心地良いです。
ゆるーくしているからか、2ヶ月で3キロ減のペースなのですが。それでも、3月から5キロ落ちました。

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ダイエットは周りに宣言することが大事と良く言われますが、全くもってその通りですね。私は、5月までいた事務所の人が毎日
「続けていて偉いね〜」
と言ってくれるので辞めるわけにはいかずに続けました。今は習慣と、夜に食べると具合が悪くなるようになってしまったので続けています。朝起きた時に胃が重いというか、胃が疲れているのが不快に感じるようになって。
それに胃が小さくなったようにも感じます。前ほどたくさん食べられなくなってしまいましたので。



私の痩せ方の順は、まず顔に表れます。その次にお腹がある程度減って。それから背中とお尻。太腿。
大学に通っていた頃にはパツパツだったスキニーパンツがゆるゆるで着られなくなったり、中高生の時に愛用していたジーパンが入ったり、痩せたと事あるごとに言われたり。
女性はまず胸から痩せる方が多いようですが、私は胸は全然落ちなくて。昨日初めて、少しサイズダウンしたかな?と思えました。私は左右で胸のサイズがかなり違うので、上手いこと左だけ落ちてくれないかなぁなんて虫の良いことを考えています。



しかし問題は、8キロ落ちてもなお、私の体には脂肪の落ちる余地が多くあるということです。……辛い。これをネットにためらいなく書けてしまう自分が辛い。
あぁ、もう少し頑張らないと。

好きならば好きだから好きだけど

好きなものを、好きと言えなかった時代があります。
……言わなかった時代に直すべきでしょうか。



おそらく今も変わってないんじゃないかとため息をつきたくなるのですが、小さい頃、小学生くらいの時は周囲と同じってことが異常に大切でした。皆が持っているものを持っていないこと、皆が持っていないものを持っていることは好奇の視線を集めたものです。だから、テレビになかなか出ない人や周りの同い年の子ども達に人気がない人を好きっていうのもおかしな目で見られてました。



で、いわば自己規制というやつですね、中島みゆき様のファンだってことは頑なに隠して学校生活を送っていました。文集の「好きな歌」の欄にはその時の流行りの歌を書いたりなんかして。
中学生の時に、うっかり一人の女の子に言ってしまったら、その子が
「変なのww」
という反応で、嫌がる私に変え歌を散々聞かせてきたので、それ以来、一言も言っていないです。



きちんと好きだって、周りに言えるようになったのは大学3年になってからです。ファンになったのは小学6年の時でしたので、9年くらい周りには黙ってたことになります。
ある日、LINEのアイコンを変えたんです。中島みゆき様の歌っている画像に。自分で動画から切り取ってきて、上手いこと編集して位置も整えて。
それに対する反応なんですけど、びっくりするほど、ありませんでした。
それは周りの人が良かったからなのか、それとも受け入れられないと思っていたこと自体が私の気にしすぎだったのか。いや、たぶん誰も興味がなかったからでしょうね。



でも、子どもの私があれだけ頑なに、あれだけ当時も好きだった中島みゆき様を隠すっていうのはそれだけの理由があったと考えたいんです。
今も昔も、きっと狭い子どもの世界の中で私しか持たない考え方と興味は枷でしかありませんでした。今も、そうかもしれません。それでも、持ち方次第でもしかしたら武器にもなるかもしれない。それが私の希望です。



好きなものを、好きと言えなかった時代があります。

この世界での私

「私は21歳です」
そう言ったり書いたりする時、リアル(=現実)とネット(=ブログやnote)では全然反応が違います。



リアルでの私は、どちらかと言うと子どもっぽいと思われるような態度を取ることが多い、ですたぶん。自分ではそう思っています。
それは処世術なんていうものではなく、リアルで考え込んだり悩んだり、真剣にしていたりということがあまり得意ではないからです。

ネットでの、つまり自己表現をしているブログやnoteでの私は、私自身より読んでくださっている皆さんの方が分かっていると思いますので割愛しますが、もっと上かと思っていましたというコメントを頂くことはあっても、もっと下だと思っていたというコメントはまだ頂いたことがないのです。



自分では、ネットでの私の方がかなり丁寧だとは思います。それはつまり、文字で伝えるしかないため、印象を良くするにはそれしかないということです。リアルでは、雰囲気や表情、身振りでも伝えられるので、つい雑な言葉を使いがちです。それによって相手との親密度を高めたいということの現れでもあるのですが。


ま、私のリアルでの喋り方は「今どきの若者は……」と言われそうな言葉と言えば伝わるでしょうか。略語は使いますし作りますし、割と乱暴ですしね。それが私なりの自己表現の一つですので。ファッションと同じ。それによって嫌われても構わないけれど、自由な自己表現はさせて欲しいですね。



どちらの言葉を使っている自分がより自分らしいかと言えば、もちろんリアルでの自分です。だって、心で喋る通りに喋るのですから。
どちらで表現している自分がより自分らしいかと言えば、もちろんネットでの自分です。だって、心で思っている通りに書いているのですから。


たぶん、私は私をリアルとネットで補い合っているのだと思います。もしくは分けていると言ってもいいのかもしれません。リアルだけでは上辺だけ、ネットだけでは表現しきれなくて。どちらも私でどちらが欠けても私ではない。
リアルという世界の特性上、ネットという世界の特性上、どちらかだけに見せている私も、どちらにも見せている私も、どちらにも見せていない私も、全部私です。

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それはきっと、ネットの世界で泳いでいる人は皆そうなのでしょう。
それを楽しんでいけたらいいなぁと思うのです。

傷つけない言葉

私が何気なく言った言葉で傷ついている人がいるんだろうなぁと思いました。



ある男性のことなんですが、ものすごく元気に見えるんです。70歳を過ぎている方なんですけど、車も運転するし夜遅くまで起きているし豪快に笑うし、本当にパワフル。
だから、私以外の人も皆、「何でそんなに元気なの?」と尋ねるほど。ガッハッハと大きく笑い、走り、際どい冗談も飛ばして、パワフルという言葉があれほど似合う人が他にいるかと思えるような。ものすごく長生きするような。そんな人です。



でも、癌なのだと聞いてしまいました。
長くないのだと。半年前は心肺停止も経験したと。糖尿病で、インスリンも打っていると。



無駄な深読みかもしれません。でも「元気だね」と言われるたびに、本人と家族はどんな気分で入るのでしょうか。決して、体に癌が巣食っていると悟られないほど笑いながら。
私だったら、耐えられないと思います。誰も見ていない夜は、泣いてしまうと思います。元気なのは見せかけだけでこの人は大変な思いをしているから、そんな風に言わないで、と。無責任に、長生きするなんて言わないで、今日命があるだけで私達がどれだけ感謝しているか知っているのか、と。



私の従兄弟は「幸せそうだ」とよく言われる子で、「幸せそうじゃいけないわけ?!」と家で逆ギレしていたそうです。
私もよく「生きているのが楽しそう」と言われます。生きているのが楽しいと思っている時に言われれば、笑顔で「そうだよ」って答えられるのですが、何だか生きているのが辛いなって思っている時に言われるたびに、「私だって辛い時があるよ!!」って叫びたくなります。
褒められている、そう分かっているのに、胸ぐらを掴みたくなる気持ちになるのです。悪気がないから尚更。



他人を褒めるのは難しいことです。自分と他人と価値観が異なるから、自分の知らない事実があるから、他人は見えないところで無理をしているかもしれないから。
言っている方も悪気はない、褒めているつもりでいる。そんな発言は、傷つけようとして発せられた言葉よりも尖っているのかもしれません。褒めると貶すは紙一重。それならば何を信じて言葉を発すれば良いのかも分からなくなりそう、というか分からなくなります。



だから、勉強したいです。知らないことをたくさん知りたい。色々な人と色々な生き方を知って、世界を覗きたい。
そうすれば、私にもいつか他人を傷付けない生き方が出来るでしょうか。
それはその時も分からないかもしれないけれど、少なくともその時を目指したいなと思うのです。

私の理解と勘違い

私は私を理解しているのでしょうか。分からなくなりました。

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ついこの間気付いたのです。
私はサブキャラが好きなのだと。例えば漫画、例えばドラマ、例えば映画。私はヒーローやヒロインよりも、ヒーローの友達やヒロインのお父さん、ヒーローの弟やヒロインの同僚に惹かれる傾向があるのです。

大発見をしたと思いました。考えてみると、今まで好きになったキャラクターは、ほとんどがサブキャラだったと気付いたので。
で、それを妹に告げました。私、サブキャラが好きなことに気付いた、と。すると妹は言いました。

「今さら?」



「え、知ってたの?」
と尋ねてみると、
「だってお姉ちゃん昔からサブキャラ好きだったじゃん」
との返事が。

そう言えば二年ほど前に帰省した時、
「私星のモチーフが好きだってことに気付いた」
と言ったら、母親と妹に
「私たちずっと前から気付いてたけど?」
に言われたこともあったと思い出しました。

私は自分の買い集めたイヤリングのほとんどが星のモチーフが用いられていたので気が付いたのですが、母親と妹は、その前から私の選ぶものを見て気付いていたみたいです。



もしかすると、自分のことは他人の方が良く知っているのでしょうか。

自分が自分を理解していると思っているのは心のごく一部分だけで、好みや性格、癖などは周囲の人たちの方が良く理解しているのかもしれません。四つの窓と言うのでしたでしょうか、①自分しか知らない、②他人しか知らない、③自分と他人が知っている、④自分も他人も知らない部分があるというのは有名ですが、自分の知らない自分がいると気付いてちょっと怖いです。



私はどのような顔をしているのでしょうか、どのような趣味をしているのでしょうか、どんな癖を持っているのでしょうか。あなたの目に私はどう映るのでしょうか、私の目とあなたの目はどう違うのでしょうか。

私は私で、でも私を構成するのは私だけではないのかもしれない。そんなことを考えて、ちょっと怖くなりました。

当たり前の異端児

うちの猫は、病気持ちです。目が、おかしなことになっている猫です。
ほとんど見えません。いえ、色んな所に登ったり降りたり、ウロウロはしているので、時々見えない振りをして見せているのかと疑ってしまうこともあります。
それでも、初めてうちの猫を見る人はきっと、ギョッとするでしょう。右目には黒い膜が張り、左目は開いていないのですから。



昨日、その猫を(気持ちの悪いほど)溺愛している妹と話していて、ある意見で一致しました。
「よその猫に目があるのを見るとギョッとする」



我が家のわがままな猫は、妹が拾ってきた時はもっと目が酷かったので、病気はきっと生まれつきなのでしょう。最初に見た時は私もギョッとしました。よく連れて帰って来たなと妹の神経を疑いました。
でも、もうこれだけ月日が経つと、うちの猫が普通に思えてくるのです。よその猫は、どうしてあんなにキラキラ光る目をしているのか、分からなくなるのです。



この話題で、
「分かる〜w」
「瞳大きくなるとか、だったわ〜って感じ?」
「黒くない!ってなるわ」
「目に色がある!ってなるよね」
「目が見える猫が不自然に思えてきてるし」
「それなw」
と盛り上がりました。



我が家の狸に似ている猫の目は、世間的にはどう考えても異常です。でも、我が家では普通なのです。
普通は、きっと作られるものなのでしょう。
当たり前も、きっと最初は誰かの異常だったのでしょう。



変わってるねと言われる。私はこの世界の異端児ではなくて、一歩先の普通なのかもしれない。


そう言ったら、我が家で一番偉いその猫が、馬鹿にした雰囲気で『いいから外に出せ』と鳴きました。




考えている恐怖

友達のRとご飯を食べに行って、色々と盛り上がってお喋りを楽しんできました。盛り上がった内容については後日書こうと思いますので、今回はRがこぼしていた愚痴について。
曰く、
「同じ職場に、一つ年上の女の後輩がいるんだよね。その人が、すごく私にプライベートを聞いてくるから面倒くさいんだよね。それも私ばっかり。二日に一回くらい色々聞いてくるから面倒くさい」



私はそれを聞いてピンときました。その後輩の彼女、私に似ているんです。というか、私はかつて彼女でした。



「あのね、その人は、恐いんだよ」
そう言うと、Rは疑問符を顔中にくっつけました。
「Rってさ、何考えてるか分かんないって良く言われるでしょう?」
「めっちゃ言われる」
「だと思った(笑)) でもさ、実際何も考えてないでしょ?」
と聞いてみると、
「うん、何も考えてない」
と自信一杯に頷かれました。



「私はもう、Rが何も考えてないって分かるから恐くないのね。でも、R、彼女に顔に出ないタイプだと思われてるんだよ。何考えてるんだろうって分かんなくて恐いんだと思う。たぶん」
「そうなのかなぁ」
「そうだよ。私も昔そうだったもん」
「マジで?!」
「うん、今は別に。だって、何も考えてないって分かってるから全然平気よ」



私はかつて彼女でした。
私自身が心の中でもずっと喋っているから、他の誰もそうだと思い込んでいました。他の誰かに関してはだいたいの機嫌ぐらいは読み取れても、Rだけは何を考えているか分からなくて恐かった。
Rに尋ねる彼女には、悪意はないのです。恐いからはっきりさせたい。どういう人間なのか、知りたい。それだけの感情だと思います。
彼女は、何かを常に考えているという状況をRに求めているのです。ただ、彼女は知らないのです。感情をほとんど抱かず、感情の起伏がなく、淡々と目の前の出来事を処理するタイプの人がいることを。
私、R以外の何を考えているのか分からない人は、正直言って今も苦手です。けれど、何を考えているんだろうと恐いことに『何も考えていない』という可能性を付け加えることは出来るようになりました。



彼女が、Rの理解者となってくれますように。