別に忘れているわけではないんです。このブログの存在を。
ただ書くほどのこともないというか、書く気がないというか。
でもこのブログがあることが、私の中で何か支えになっていることは事実です。
帰ってくる場所がある、書ける場所がある、ただそれだけのことが、支えになっていることは確かなんです。
まだ、旅の途中。
高校一年の時の国語の授業で、先生が言ったのです。
「私たちは、自分に得のあることを進んでする訳です。例えば、隣の人の消しゴムが落ちた時に拾ってあげるのは、その人と良い関係を築いておきたいからです。
もし、普段から意地悪をしてきたりお礼も言わないような人だったら、親切にしないということもできるんですよね」
この先生の例え話を、上海で思い出しました。
中国人は無愛想だとネットで読みました。確かに、店員はにこりともしないです。
でも、笑顔を向けられるのと優しくされるのは全く違うことです。
バスでも地下鉄でも、誰もが率先してお年寄りや子供連れに席を譲ります。でも、黙って真顔のまま、席を立つだけです。
道を尋ねても、ただ方向を指差されるだけのこともあります。笑顔で気を付けて、なんて言われません。
そこに優しさがないなんて思いません。笑顔になる理由がないから笑顔にならないだけです。
笑顔でいても心の中では泣いていることがあるように、無表情でも心の中は慈愛で溢れていることがあっても良いと思います。
私は笑顔に慣れすぎて、笑顔でなければ人は親切にしてくれないと思っていました。無意味に笑顔を振りまいて、他人の親切を受けようとしていました。私は笑顔に慣れすぎて、他人が笑顔であってもそれが普通だと思っていました。無表情だと怖いと感じて、笑顔で接してくれて当たり前だと思ってしまっていました。
笑顔でなくても、人は道を教えてくれるし荷物を乗せるのを手伝ってくれます。
笑顔でなくても、店員は物を売ってくれるし料理を運んでくれます。
笑顔でなくても、言葉が解らないのを察して身振り手振りで教えてくれます。
笑顔でなくても、それを咎められることなんてありません。私は私が笑いたい時だけ笑えばそれで良いと言われているようで、だから、中国にいるのはすごく楽です。
楽しくないのに、嬉しくないのに笑顔を振りまかなければならないなんて、何てストレスフルなことをしていたんだろうと、日本を思います。そんなストレスフルなことを無意識ながら、他人に強いていた自分を思います。
自分にも他人にも優しくありたいと、そう願ってきました。
もしかしたら中国人は、初めからその方法を知っているのかもしれません。
私の文章が誰かの考えるきっかけになれば、誰かの心に残ることがあればいい――なんて考えていません。
だって、私の文章は、ただの足跡です。廃棄物とか残りかすとか、そういう言葉でもいいです。必要な部分は残っていない、ただ打ち棄てられるだけの、価値のないもの。
ブックマーク数が欲しい頃もありました。読者数を増やしたい時期もありました。運営からのおすすめに載りたい季節もありました。
でも、誰のために書いているのかを考えて向き合った時に、ブログのお陰で心の平安や成長や気付きを得ていると自覚した時に、私はもう自分以外のことを考えて文章を書かなくても良いのだと知りました。自分のためだけに何かを得れば良いのだと悟りました。
今は、感動も感謝も感心も関心も、興味も期待も好意も同意も、要りません。読まれたその一瞬後に忘れられても構わないんです。
そもそも、文章を読んでもらえることだってあんまり期待していないです。それは、私自身がとても厳しいからだと思います。
特に長文は、はっきり言ってしっかり読み込むことなど少ないです。流し読みして、あるいは真ん中らへんをすっ飛ばして読んで、それで引っ掛かるものがあればもう一度初めからきちんと読むのですが、なければ印象に残ることなく終わりです。いえ、引き込まれる出だしでないと読み始めることすらありません。
そんなものなのではないでしょうか。
だからこそ、文章に目を通してもらえることだけで満足です。
私が私のために考えて、私のために並べて整理して、結論や結論のようなものを導き出した、それは私の中にしかありません。それ以外のものはこうして残しておけるけれど、それは私のためだけに取ってあるから、誰にも分け与えてないものです。
一番良いものは独占しているから、それ以外がどうなろうが知ったことではないし全然構わないのです。
自分の文章の受け止められ方もどうだって良いことで、私の文章が誰にも影響を及ぼさなくたって良いのです。文章って、娯楽だと思うのです。読むことって、楽しみだと思うんです。
何より、私自身が、何かに悩んだ時、誰かの文章を読みたいなんて思わないんです。素人のものならなおさら。気を紛らわしたいということはあるかもしれないけれど、役立てようと思って何かを読むことなんて私にはありません。
だから、逆の立場になりたいなんて、誰かの支えになりたいなんて思わないんです。
ブックマークもコメントも、もらえたら嬉しい。だけどそれを受け取る時には既に、私は一番欲しかったものは手に入れてしまっています。
ここに一つ一つ文章が埋まっていって、私の心の欠片や残りかすが溜まっていって、ここが山になれば良い。山脈はきっと豊かな水をもたらすから、その時は心の海で自由に泳ぎ回りたいと思います。
「南半球では、月が逆なんだよ」
という私の言葉に、
「は?意味が分かんない。昼間に月が上るってこと?」
と盛大にボケた返事をしたのは私の妹です。
その妹の話をしたいと思います。
最近分かったのですが、彼女の中には様々なマイルールが存在しているようなのです。
例えば、洗濯物を干している時に手伝われることが嫌いだと彼女は言っていました。洗濯物には干す順番があるから、らしいのです。
父のパジャマから母の下着、私の靴下に至るまできっちりとその順番は決まっていて、それを乱されたくないから、洗濯物は自分一人で干したい。そう彼女は言いました。
その他にも、色々なことに順番や決まりが存在するのだそうです。
お風呂で湯船に浸かる時に足を向ける方向は一日ごとに左右交互。玄関から中に入る時は左足から。玄関から外に出る時は左足から。
驚く私と母親に、
「皆そんなに縛られずに生きてるんだねぇ」
と彼女は感心していました。
私たちが縛られていないとすれば、彼女は何に縛られているのでしょうか。
私が意味が分からなかったのは、電柱やコーンなどの背の高い人工物が道にある場合、その延長線上は跨いではいけないというルール。さらにその延長線上を跨ぐ足は左右交互であること。
「そこに影がある場合もまた難しいんだよね」
と言っていたのには深く突っ込みませんでした。
私でない他人に心というものが存在することを、時々思い返して不思議な気持ちになることがあります。
自分の中でどんなに厳格なルールを持っていても周りには知られていない妹のように、知られたところで理解し難いことだと思われる妹のように、誰もが他人が踏み込めない領域を持っているということ。それが私には見えもしなければ気配も感じられないことに、時々寒いような気持ちになることがあります。
それは血が繋がっていても同じことで、私は妹が死ぬほど悩んでいても、それを言葉や態度に出されなければ、何にも分かりません。
他人と関わるのが難しいなぁと思うのはそんな時です。そしてそれは、南半球のことを想像するよりも難しく感じます。
「南半球は、北風じゃなくて南風が冷たいんだよ。南極が近いからね」
という父親の言葉に
「なるほど〜それは一番納得できる」
と、笑い転げる私をよそに一人頷いていた、妹の話でした。
大学に通っている時、先輩たちが大好きでした。
先輩たちが全てで、体育会系と間違われるほどに先輩命で、熱狂的に先輩たちが大好きでした。
私は、先輩たちは思いやりのある気遣いの出来る優しい人たちで、大人だと思っていて、心から尊敬していました。
それなのに、大学を休学すると同時にすとんと、先輩に対する興味が失ってしまいました。私の中で、それまでの超重要から興味なしのポジションへ、先輩たちは一気に移動してしまったようで、そのまま一年半が過ぎてしまいました。
先輩たちは大好きでした。けれど、サークルをまとめるやり方には疑問を感じていました。サークル内で人を募集して、サークルよりも優先して外部の活動をやろうとするやり方が気にいらなかったのです。
私は先輩たちが大好きでサークルが第一だったから、自分の中でどうしていいか分からなくなってしまったのだと思います。先輩たちの言うことを優先させればサークルが第一でなくなり、サークルを第一とすれば先輩たちと同じではなくなるということに、戸惑ってしまったのだと思います。
私はその矛盾に悩むことに疲れ果ててしまいました。だから、その矛盾をなくそうと、先輩たちを好きだという気持ちがいつのまにか、抜け落ちていったのだと思います。
先輩たちが大好きだった気持ちに、あの気持ちに嘘はありませんでした。
私は本当に先輩たちが大好きで大好きで大好きで信頼していて、人生で初めて「先輩」と呼べる人を好きになれて、すごく尊敬している人たちと同じ時間を共有できて、一緒に遊びに行ったりご飯を食べたりして、すごく幸せでした。あの頃の私のきらきらは眩しいほどに、他人からも私は充実して見えたと思います。
それが今は違う気持ちを持ってしまうようになっただなんて、本当は考えたくもありません。先輩たちの就職先も知らなくて、連絡すら取っていないなんて。
私は、私は自分のことが時々恐ろしくなります。
あんなに温かい、熱い気持ちを持っていたはずの私の胸の中は、今はひんやりと冷えていて、あんなに大切だったはずの人の面影すら残していないなんて。
この文章を書き終わっても、私は先輩の誰にも連絡をしないと思います。
私は私の中の先輩たちを、大好きだったあの頃のままにしておきたいのかもしれません。その偶像を壊してしまうのが怖いのかもしれません。現在なんて知りたくないのかもしれません。
けれどいつか、私が私より大人だった人たちを許せるほど大人になった時には、メールをして会ってみようと思います。出来るなら、あの頃と同じ私の笑顔のままで。
「先輩」と呼び掛けて。
ずっと、自分がSNSを嫌いなのは、他人と繋がることが嫌いなのだと思っていました。
でもふと気付いたんです。たぶん私は、一対一以外の遣り取りが苦手なのです。
多数に向けて発信されたものは、読んでいる側も自分だけに向けられたものだと思わない。でも確かに発信は誰かに向けてするもので、そこに反応がなければないでちょっと悲しい。
それは分かっているのだけれど、受信の時は自分だけに向けられたものではないから反応するべきか微妙だったり、自分とは直接関係のない人たちもいたりして、戸惑ってしまいます。結局反応しないことが多くて、それはそれで話し掛けられたのによく分からないから無視したみたいな、変な気分になります。
発信する時は、反応がないのを気にしてみたり、反応を友情のバロメータにしてみたりするんです。
そんなことが嫌いなのだと思います。私は話し掛けられたら返事がしたいし、話し掛けたら反応が欲しいし、自分が掛けているのと同じ重さで相手にも向き合って欲しい。私は欲張りで、自分と同じ質量の情を相手に求めてしまうみたいです。
だから、それが実現されない、一が多数に向かって発することが苦手なのです。
と書いていると、ブログもそうだと言われそうなのですが、私にとってnoteは違うのです。
ブログは繋がらなくて良いし、交流もしないという選択肢があります。
それから、私は誰かのためにこのブログを書いている訳ではないのです。いえ、たった一人以外の誰かのために。その誰かは自分です。
書いている間、私は自分と向き合っています。自分に向き合い、問い掛け、思い出し、掘り出し、訂正し、新たなものを見つけ、磨き、また心の中にそっと戻しています。
その作業の残骸の文章が、私のブログの文章なのです。このブログが誰か私以外の目に触れているのは、それは残骸なのです。私が自分と向き合った、ただの足跡。
もう一つ、SNSで不自然に感じることがあります。
自分の近況を求められてもいないのに伝えることとか、自分の考えを求められてもいないのに表明することとか。それは果たしてコミュニケーションなのか、と。
近況を知ることで、その人を知った気になってしまうなんて、おかしなことだと思うんですよね。自分の選択肢や行動や置かれている環境だけを知って、私と会ったような気分になって欲しくないんです。それらを知っただけで、誰かと繋がっているような気分にもなりたくないんです。
自分の中の違和感を大切にしたいです。例えこの感覚が時代錯誤だったとしても、私しか感じていないものだったとしても、この不和は、私が自分で自分を守るために必要なものだと思うから。
だからこれからも、SNSは最低限どうしても必要なものにしか手を出しません。そう決めました。
あなたと一対一の遣り取りがしたいです、って言うことは気恥ずかしくて、勇気が要ります。
でも、これからもそう伝えていきたいです。
大学に通っている時、私はたぶん、鬱の入り口にはいたと思います。
シャワーを浴びるのが面倒になり、自炊が面倒になり、掃除が面倒になり、他人と連絡を取るのが面倒になり、出掛けるのが億劫になり、笑った時に顔が引きつるのを感じるようになり、ひたすら眠り、1日14時間寝ても眠く、とにかく大量に詰め込むように食べるようになり、満腹になっても食べることを止められなくなり、時間ぎりぎりに行動するようになり、笑顔になるのが辛くなり、走ってくる車に突っ込みたくなったり、川に飛び込みたる衝動と闘ったりしました。
あれが鬱だったかどうかなんて、専門家ではない私には全然分かりません。ただ、感じていました。このまま行けば戻れなくなると。
それでも、自分はもっと頑張らないといけないと思っていました。気合いを入れて生活しなきゃと思っていました。そうすればちゃんと生活出来るんだ、って。
それは、最近ちょっと鬱気味なんですよねー、と冗談めかして打ち明けた時に、
「その程度じゃまだまだだよ」
って言われたからです。
「私はもっと辛くて、パニック障害になったよ」
「昔は暴力とか振るわれて当たり前だったから」
「そのくらい働くなんて当たり前よ」
「自分で自分が鬱と思えるなら、鬱じゃないんじゃないの」
今思えば、自分が辛いなら自分の基準で判断すべきでした。
他人と自分の基準は異なると、私は私を守ってあげるべきでした。
その人たちだけじゃないです。私も、例えば私の時はこうだった……って思ってしまったり、自分の方がずっとよく頑張ったと思ってみたり、そんなこともあります。
でも、なんかそれって、ただ辛さを倍増させるだけなんじゃないかって思うんです。どちらの側も。
どうして自分の方が辛かったと思うのは、きっと自分の方が上だと思いたいからなんですよね。自分の方がもっと辛いことに耐えてきてすごいんだって。
でも、辛いことの量って、測れないんじゃないかって思うんです。だって皆同じ環境にいるわけじゃないし、背負うものはそれぞれ違うから。
同じ立場にいたとしても、家族がいるかどうか、経験があるか、楽観的か悲観的か、体は健康かどうか、そんなことで随分感じ方は変わってくるはずです。
あの頃の私に言って聞かせたいです。
空を見て幸せだと思うことが当然だったあなたがそう感じられなくなったのなら、それは異常だと。例えあなた以外の世界中の人間が空を見たくらいで笑顔にならなくても、あなたにはそれが当然だったのだから。
いつも笑顔だと言われるあなたが、笑顔を苦痛に感じるのならそれは異常だと。例え笑顔にならない人間がいるのだとしても、あなたは笑顔が普通だったのだから。
そして今の私に言って聞かせたいです。
あなたはあなたであり、他人ではない。だから、他人に対して自分だったらもっと……と思うのは止めなさい。それはあなたの不幸をつくり他人の不幸をつくるのだと。あなたが生きにくいように他人も生きにくいのなら、否定し合いながら生きていくのは不幸だと。
それを私がきちんと出来るようになれば、少しは誰かが生きやすくなってくれるでしょうか。
幸せを自慢し合える、そんな関係を誰かと築けるでしょうか。
私はそう信じます。
私は冷たいのだと思います。
高校時代、毎朝クラスメートと「おはよう」を言い合うことを楽しみにしていました。
でもある日気付いてしまったのです。私から言わなければ、私に「おはよう」と声を掛ける人がいないことに。それはいじめとか仲間外れとかそんな積極的なことではなく、ただ単に、言わなくて良いなら言わないという消極的なものだったのだと思います。
でもその時思ったのです。
自分から「おはよう」を言ってくれるような子を友達だと思いたい、と。一方的に声を掛けているだけの関係なんて寂しすぎると。
学校という場所は人との関わりを持つ機会が多くて、そこにスマホを持って入ると、スマホの中が連絡先で溢れることになります。
『ともだち』だと画面に表示される人は増え、スマホの中にも『グループ』ができ、大して仲が良くない人との繋がりも、信頼する友達と同じ重さで存在します。
それが私はすごくすごく嫌で、自分から「おはよう」と声を掛けないとお互いにただ黙っているだけになるような希薄な関係が許容出来なくて、何かの節目ごとに、友達を整理しています。
年賀状を出さなくなったり、メールアドレスを変えたり、今すごくやりたいのはLINEのアカウントを新しくすること。
そう言ったら、
「人との出会いは一期一会だから、私はどんな人ともずっと繋がっているよ」
と言われたことがあります。
一期一会という言葉を出されると何も言えなくなります。
私は冷たいのです。今は疎遠だとしても、一度は仲良くなった人と連絡が取れなくなることに何の寂しさも感じません。関係をリセットすることに躊躇いもなく、むしろ楽しみにさえしています。
私は冷たいと思います。人を選ぶことにも自分が選ばれないことにも哀しさをおぼえることがありません。繋がりに楽しさをおぼえることもありません。
私は根本的な部分で、他人を信じられないのだと思います。
他人を信じられなくて繋がりを信じられなくて、今あるものしか大事に出来ない。少し離れれば捨ててしまうことも厭わない。
だからアカウントを作り直せなくて、友達以外にも見つけられてしまうFacebookは嫌いで、匿名でリアルでの繋がりのない、いつでも止められるnoteは居心地が良いのです。
でも敢えて言うのなら、私は私と同じ重さで向き合ってくれる人を求めていて、そういう意味では他人にものすごく期待をしているのです。
他人との関係を大事に出来ないのではなく、大事にしていない私は、きっといつか大きなしっぺ返しに遭うと思います。
大学のゼミの同期生が、卒業旅行に行って帰ってきました。
私は休学して来ているマレーシアとインドネシアで、入ったままのグループラインの大量の通知を迷惑に思いながら眺めていました。
同期が行ったのは南国。そして飛行機の関係で韓国。その卒業旅行の報告がゼミのブログに投稿されていて、溢れた写真の一枚に、こんなコメントがつけられていました。
「韓国の闇が写ってます……」
問題の写真は、駅構内での写真なのですが、よく見ると確かに、小さく物乞いの姿が写っていました。
ああ、これは闇と呼ばれるのか。不思議な気持ちになりました。
インドでは、彼らはいて当然の存在でした。道路端や列車の中や人混みの中、彼らは自分の存在を主張していました。
人で溢れる観光名所では、五体不満足大会という言葉が頭に浮かんでしまう、そんな人たちが器を差し出していました。思わず目を背けてしまうような、そんな光景も人も目にしました。
彼らは「闇」なのでしょうか、彼らは隠されるべき存在なのでしょうか、彼らは存在を許されないのでしょうか。
いつの間にか、私は彼らを、「現実」と心の中で呼んでいました。
日本という社会では巧妙に隠されているだろう現実。生きたいと、彼は全身で叫んでいました。自分は生きるのだと、彼女の目は私を見据えていました。明日も生きてやるのだと、あの子は私を睨みつけていました。
彼らは、彼女らは、あの子たちは、私かもしれなかったし、私かもしれないし、私になるかもしれない存在でした。彼らは正面から、私を試していました。「現実」という巨大なものを纏いながら。
手を差し出したい人が、きっと日本にもいるだろう。そう思いました。助けてくれと言えないだけの人が、きっと日本にもいるだろう。そう思いました。餓えて死ぬことを選んだだけで、そうならなかった人が日本にいる。そう思いました。
大量の汗の匂いのする列車の中で、
「世界はまだまだ貧しいだろう」
と言ったおじさんに、日本にもまた違った形の「現実」があると、英語もタミル語も出来ない私は伝えることが出来ませんでした。
誰もが何かを学びとるというインドで、私は現実を知りたくくて見たくなくて、インドの広さに圧倒されていました。
ただ思いました。もし私が、明日食べるものに困ってあらゆる手段がなくなったら、私は彼女たちになるだろうと。生き延びてやると叫ぼうと、そう思いました。
物乞いは韓国の闇かもしれません。でも、それがないことをただ誇ることも日本の闇かもしれません。
私は卒業旅行には、行かないと思います。
必ず死ななければならないのなら、いっそ今死にたい。
見終わって余韻に浸りながら、そう思ってしまう映画でした。
ファン以外は見ないであろうこの劇場版のコンサートを、私は「中島みゆき」という存在の作り出す世界に入り込んで見ていました。
見ていたというよりも、「中島みゆき」と向き合っていました。あの人と二人の世界に、私はいました。
中島みゆきを「」で括ったのは、音楽プロデューサーの瀬尾一三さんが、この映画の公開記念トークショーで「彼女の創作方法は皆目知りませんし、知りたくもないです。」と仰っていたからです。
この発言は本当にその通りで、私もそうです。知りたくないものが多いです。あの人が「中島みゆき」として完成されている存在にしか私は惹かれません。
作られていても虚構でも幻でも構わない。私はプライベートの64歳の中島美雪さんには興味がありません。ウィッグを付けて化粧をして、ものすごいオーラを纏って表現の限りを尽くして歌う「中島みゆき」。そんな存在が私は好きです。
こういう考え方は、酷なことかもしれません。私は「中島みゆき」の完璧を求めているから。
けれど、もし中島美雪さんが「『中島みゆき』を演じることを辞めたい」と言ったなら、私は心からお礼を言って祝福します。「中島みゆき」という存在をこの世に作り出してくれてありがとうございました。それだけで十分過ぎるほどです。そう言って笑顔を見せたいです。
そういう意味で、この映画の中で「中島みゆき」は完璧でした。
オーラを纏い、演じるように歌う、あの人は完璧でした。優しく言い聞かせるような歌い方から最後の部分だけドスを効かせて問い掛けられた時、ぞっとしました。『阿壇の木の下で』の途中で「中島みゆき」が舞台の中央で女神に見えた時、ハッとしました。『流星』を歌う演技力にうっとりしました。
最近のアルバムは聞いていないから、知らない曲も多かったのですが初めて聞く曲にも容易に入り込めました。
声も本当によく伸びていて、掠れもしなければ伸ばしが足りないこともありませんでした。伸びて伸びて艷やかで表情豊かで、まるで芝居を見ているかのような表現力のある声。完璧でした。
「中島みゆき」がマスメディアに姿を現す度に、ファンであることを誇りに思います。この魅力を知っているかと自慢してまわりたくなります。
生きていて良かったです。
そう思えるものに出逢えただけで、私は仕合わせです。