ちゅるゆーかの頭の中を晒すブログ

ちゅるゆーかの頭の中

出会わなければよかった人などないと笑います。

人間関係それ自体が刺激的すぎる

友人関係でいろいろ考えていて、なぜ私は大切にされないと大切にできないのだろうとか、そもそも大切にされないのは自分がそこまでの人間じゃないからだとか、純粋に性格が悪すぎるんだよなぁとか。
好きになってもらいたいのに、好きになられすぎると困ってしまって、それでも好かれないのは価値がないように思えてしまう時もあって。

「胃が合うふたり/千早茜・新井見枝香」を読みました。
面白くて勿体なくて、ちまちま読んでいました。
新井見枝香さんの文章に、はっとしました。

少し心が離れていたな、と思う。今、近付いたから、気付いたのだ。
もしちはやんから、何か彼女にとって転機となるような、喜ばしいニュースを打ち明けられたら、どうだろう。本人が幸せそうなら、それでいい。 もし不安要素があるように見えても、彼女の人生だ、私は何も言うつもりはない。だが、溢れんばかりの「おめでとう」のどこかに、「くやしい」があるはずだ。どんなに相手の幸せを願っていても、一〇〇パーセント手放しで「わーすごいね、おめでとう!」と言って終わりなら、あまりにも向上心がなさすぎる。妬み嫉みとは別の、純粋な刺激を相手から受けないのだとしたら、これほどつまらない友人関係はないだろう。 祝う気持ち、誇りに思う気持ち、それだけではなく、もっと自分の芯に深く関わる、簡単には言葉にならない感情が欲しい。
(略)
私は常に、彼女にとって刺激的でありたい。 老後の茶飲み友達になっても、だ。



ポジティブな気持ちだけでなく、ネガティブな気持ちを抱いてもいいのだと思えました。それこそが、友人関係なのかもしれないと思えました。
許すこと、許せないことはそれぞれ違うから、踏み抜かれた地雷はあの子には針の先程も傷つかないことなのかもしれなかったと思えました。
だからといって、LINEの連絡先を非表示にした友達にすぐに連絡できるほど私は人間ができていないけれど、それでも、そう思えることは価値があることのように思えました。



友達は、難しい。
何も結びつけるものがないから、なくそうと思えば一瞬なのに新しく作る方法が難問すぎる。維持はもっと難しくて、人間関係など要らないと口に出してしまいそうになるほどです。



人は難しくて、直接会って会話をしていないと何か噛み合わなくなってしまう気がします。
あんなに気が合う人だったのに、いつのまにか遠くなってしまう。それでも楽しかった記憶が残っているから違和感を抱えつつもまた会って、なんだか距離を置いてしまう。
与える者、与えられる者。そんな風にもっていかなくていいんですよと昨日のO参与に伝えたい。
心配しなくてもあなたが好きだし、私のことを笑わせられなくても私はあなたが好きだし尊敬していると、伝えられないし何故言葉にしなくとも伝わっていないのか分からない。
会えない日々が続いていたから、なんだか距離感も違っていた気がするし、酔っ払うとあの人はくっついてきたがるからそれは嫌だったけれど、変な距離がこのまま生まれてしまわなければいいなと願っています。
ここに書いたところで分かる人間など誰一人もいないのに、ただの愚痴。



Aさんとも、また胃の赴くままにご飯を食べに行きたい。誘ったとか誘われたとか、そんなことを考えないようになりたい。
自分の物差しで他人を測らずにいたいのに、私は物差しで測る方法しかしらない。

自分にとっても刺激的で、相手を大事にできる人間関係でいたい。