ちゅるゆーかの頭の中を晒すブログ

ちゅるゆーかの頭の中

出会わなければよかった人などないと笑います。

いなくてもいい人間たち

「僕なんていなくてもいいですよね」 と周りを困らせることを言う50代の方を知っています。

勿論、私だって「あなたでなければ」と言われたいと思います。けれどそんなこと、一つもないのだと知っています。私が出来ることは私以外の人にだって出来るし、誰かに出来たことは他の誰かも出来るに違いないことです。それは『今』ではないにしても、いつかは出来るに違いないのです。 だから私は、「あなたでなくても出来ることだけど、敢えてあなたにお願いしたい」と言われたいです。

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私の代わりは幾らでもいると思うのです。誰だってそうだと思います。どんな役職だろうと仕事だろうと、代わりの人は絶対にいるものだし、何ならいなければいないで出来ることだって多いのです。 私がしなくたって、何事も、きっと誰かがするに違いありません。 どんなに偉大な人物が亡くなっても第二の○○と呼ばれる人は出てくるし、それだけで世界が滅びるなんてことはない。だから、今まで人類は繁栄してきたのだと思います。 諦めとか達観とかそんな風ではなく、事実として。私はそれを受け止めたい。だって、世界には70億を超える人々がいる。私にだけ出来る役割があるなんて、とてもじゃないですが信じられません。

でも、それだからこそ私は安心してどこにでも行けるし、安心して死ぬことが出来ます。だって、この世で自分にしか出来ない役割があるのなら、死ぬことすら許されない訳ですから。

私はただ、自分が自分でいることに誇りを持てる自分でありたいです。いなくてもいい私でも、だって、いては駄目な訳ではないですから。 私が生まれた確率がどのくらいなのか知らないけれど、私がここにいること、それしか確かではないから、それに自信を持つしかないじゃないですか。私の代わりはいても、私の命の代わりはないから。

心を食べてた

大学に通っていた2年半で、16キロ体重が増えました。

ストレス溜まってて、食べても食べてもまた食べてしまうんだよねとLINEで友達に語ったら、ネットの過食症診断のURLが送られてきて「とりあえず診断してみ」と言われました。 過食症になってしまう気がする……と思いながら診断したら、やっぱり「過食症の疑いがあります、専門機関での診察をおすすめします」と表示されました。 特に最後の半年くらいはずっとそんな感じで。でも病院は行きませんでした。大学がストレスだから、休学したらきっと治ると信じていたので。実際治まりました。

ダイエットを試みたのは一度や二度ではありません。 でもそのたびに、ストレスで山のように食べてしまいリバウンド。 ドラッグストアに行って、2000円分くらい買ってくるんです。全部100円とか150円とかそんなパンや菓子の類ばかりを。それをもくもくと、スマホを眺めながら全部食べてしまうんです。 食べても食べても、まだ食べられる自分が少し怖くて、でも食べないと落ち着かないし食べている間だけストレスを忘れられるからまた食べて。服を着たら太っているのが嫌で。それもまたストレスになってまたドラッグストア。

そんなことを繰り返していたらいつの間にか、痩せてるねと言われていた体は誰にも痩せてるなんて言われない体になり、バイト先の人や家族には「また太っただろ」と言われていた日々でした。

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今減らしている分の体重は、あの日々のストレスだと思っています。あの日々に食べた大量の菓子パンやスナックやグミは、私の体を肥やして心を削っていきました。 痩せればあの頃の私に微笑みかけられるような気がするのです。今は、まだ無理。過食だった私を振り返りたくもない。微笑みかけられるのは、鎖骨が自己主張を始めた鏡の中の私にだけです。 何ヶ月後かにきちんと痩せたら、減った分の脂肪は心を満たしてくれるでしょうか。

久しぶり、待ってないけど待ってたよ。仲良くしようね。

やって参りました。なかなか来ないなぁとは思っていたんです。6月の予定だったのに、どうしたんだろうって。 少し遅れましたが、きちんと訪れたようです。 ただいま絶賛うつ状態発動中です。

車を見ると、今あの前に飛び出したら死ねるなぁと思うことありませんか。まだいける、まだいける、もう間に合わないなって心の中でカウントしたりしませんか。 うつ状態の私にとっては普通のことなんですが、以前口に出したらどん引きした目で見られたのでもう口に出しては言いません。

前回2月にうつ状態が終わったので、次は6月だろうと考えていたのですが、少し遅れたみたいです。これが良かったのか悪かったのかは分かりませんが、とにかく終わるのを待つしかありません。

今、私の目にはどんな景色も同じに見えます。今、私はこのテキストを書きながら自分の表情がないのが分かります。川を見ても雨が降るのを見つめていても何も感じられなくて、もう出来ることなんてありません。 救いは、無理に笑う必要のない環境にいることでしょうか。中島みゆきさんの音楽をひたすらシャッフル再生する以外に、対処法はあまりないです。明るい歌になったら飛ばして暗い系の歌ばかり再生して、私は自分が落ちるところまで落ちるのを待っています。

落ちるところまで行ったらもう上がるしかないのを信じて、それでも一生このままのような気もして怖くて、でもその怖さももう慣れていて、大丈夫だって思いながらもやっぱり怖くて。 胸に固まる密度の濃い、重くはないのにつかえて取れないネバネバしたものは何で溶けるのか、私はまだ実験中です。

小娘はババァになる

大好きだったバイト先に、大嫌いだったジイさまと呼ばれている人がいました。もちろん、本人の前では呼べないあだ名。

「小娘ごときが」 「ガキが文句言うな」 

といつもいつも言われていました。 うんざりでした。私だって好きでこの年齢でいるんじゃないと思っていました。高校の頃から目が覚めたら30歳くらい年を取ってないかなと考えていたのが、更に強くなりました。

ちょうどその時に、異動してきた社員さんと話していて、そんな話になりました。 若いのは嫌ですって言いました。それだけで馬鹿にされるから、早く年を取りたいんですって言いました。そうしたらもう、クソガキがって言われなくて済むから。 「ジイさまだろう?」 その社員さんは言いました。そうですよ、ガキが女がってバカにされるんですよと言ったら、 「でも、年取ったらババァってバカにされるからね」 と言われました。

幾つであろうが、バカにする人は理由を見つけてバカにするんだなぁ。そう思ったら、すごく楽になって今の年齢でしか感じられないことを大事にしないといけないのかなって自然に思えました。

もう私は、余分に年を取りたいとは思いません。もちろん、年を減らしたいとも思いません。私は今の年齢でしか感じられないことを感じていくべきだし、もう昔の年齢で感じられることは感じたからです。 ジイさまは恐かったのかなぁと思います。自分の年齢でないと感じられないはずのことを既に周りが感じているようで、自分の経験が大したことのないように思えて、恐かったのかもしれません。 でも、幾ら恐くても、努力しても何も出来ない年齢でバカにするのは狡い人だったなと思い出します。でもそれは、努力しても自分が先に死んでいく恐怖だったのかもしれません。

ジイさまの気持ちは、分かりたくありません。恐くても、自分が感じてきたことを自分で信じられる人間になりたいです。 とは言いつつ、ジイさまという呼称から何とかしなくてはいけませんね。

ノートと心

小中高と、ノートをつけていました。中身は、考えたことや、不満や悲しみや、短歌や詞や新聞の切り抜き。それは私のもう一つの心でした。 誰かに見られることなど一生ないように、大学進学で家を出る時に全て廃棄しましたがまだ中身は容易に思い出すことが出来ます。

あのノートがなかったら、心の中を記すことをしなかったら、と思うことがあります。ぞっとします。 幼かったあの時代、どこにも自分を吐き出す場所はありませんでした。何がしたいとか何がしたくないじゃなくて、世界との折り合いのつけ方が分かりませんでした。とりあえず、こうだと思うことを実行に移せば変わった子として扱われ、奇異の目で見られることに慣れてはいても平気になることはありませんでした。

あの頃の私は、文字にして書き出すことで何とか世界との折り合いを探していました。 誰も分かってくれないと思っていました。誰にも分かるはずがないと思っていました。でも、誰か分かるはずだと思っていました。私だけじゃないと思っていました。

それは、今も同じなのかもしれません。けれどあの頃はもっと世界に夢を見ていて、それ故に苦しんでいました。どうして私の世界は美しくないのか、と。

今は、私と他人との違いの、その境目を探したいと思えます。それがきっと私のためにもなるはずだし、それでしか私は世界の役には立てないと思います。

昔から、自分と他人との間の溝の存在が苦しくて、それを埋めようとしてきました。今は、もう埋めることなど考えていません。ただ、そこに橋を掛けられたらいいなと考えています。

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その橋は、今の私にとってはこのブログです。昔、私の青いノートと赤いノートがそうだったように、私の心の内側。 昔のノートと違うのは他人に公開しているということだけじゃなくて、他人に知って欲しくて書いていること。私がスマホで打つ文字は私を通してしか生まれないから、私は文字を橋にして心を公開します。 それは、他の誰でもなくて私のため。それでも、いつか誰かがこの橋を使って何処かへ行けたらいいなとも思ってしまうのです。

今日の夢@2016/06/30

友達のNと、なぜか一緒にいました。 二人ともバックパックを背負っていて、泊まるところを探そうということになりました。

ホテルを見つけて、その階段を二人で上って行きました。木で出来たホテルで、内装は全部茶色かったです。 2階、3階とどんどん上っていき、Nが私より何歩か前を進んでいました。そのはずなのに、私が3階に上る踊り場の手前で下を見下ろすと、なぜかNは2階に着いたところで、しかもバックパックとは別の、私のリュックも持っていました。そのリュックの口は開いていて、1.5L入りのペットボトルから水が溢れていて、Nが慌てていました。

それを見下ろして何やってんだ……と思って、更に、それにしてもこのホテルは人がいなくて変だなあ、と思ったところで目が覚めました。

バックパックもリュックも、私の今持ち歩いているものなので、完全に旅の影響ですね。なぜNが出てきたのかは分からないのですが。

Nのバックパックは青か紫、いや青紫だった気がします。大きくて、それなのに私のリュックも持っていたという設定はちょっと可哀想ですね。何で私のリュック持ってたんだろう。

でも、誰もいないホテルなんてちょっと怖いですね。そう言えば部屋がむき出しで、タンスや机と椅子などの家具も置かれていました。高級なのか何なのかよく分かりませんね。

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Nとは一年近く前に会ったのが最後なので、LINEをしたらまた会おう!と言ってくれました。 「私の夢へのゲスト出演、ありがとうございましたw」とLINEを送ったら「何それウケるww」と送ってきました。今度は私がNの夢にゲスト出演するのかなぁ。

バット、アイ ライク コミュニケーション!

昨日の続きのような続きでないようなことです。
泊まっていたホステルのドミトリーで、同室のお兄さんと話をしていたんですが、あなたの英語はvery goodだと言われて驚きを隠せませんでした。



初対面はだいたい
「Where are you from?」
から始めれば失敗なくいけるんですが、お兄さん、
「California」
カルフォルニア……オレンジ……(しか思い浮かばないこの教養の無さ)。
それで、どこから移動して来たの?次はどこへ行くの?バスは幾らだった?とか色々聞いて、日本のどこの出身?しゃぶしゃぶ!わさび好きだよ!とか色々聞かれて、しばらくお喋りしました。


と言っても、○⭕から△△までのバスは幾らだった?なんて高度な文章は組み立てられないので、
「How much bus, ○⭕, △△?」
みたいな感じでしたけど。で、まぁいつもの通り『母語が世界共通語とか……しかもアメリカかよ最強か』と一人コンプレックスを弄り回していた訳です。
そうしたら、お兄さん、
「Your English, very good」
って言ったんです。そんなの言われたの人生で初めて……。



大学で受けたTOEICの点数でググってみたら『英語でのコミュニケーションはかなり難しい ( or 不可能? )。英検5級 ( 中学初級 程度 )』って書いてあるし、英語にはいい思い出なんてないのに。
でも一つだけ。
私は分からないなりに、相手の言っていることは推察で埋められます。オーバーリアクションで感情は届けます。伝えたいことは、言葉を変えて身振り手振りで伝えようとします。言えないからって黙るなんてしない。



高校の時、海外にホームステイをしたことがあります。同じ家に泊まったのは、かなり偏差値のいい高校の女の子。成績が一番良いクラスに在席してて医者目指してるんだとか。
でも、その女の子、全然喋れてなくって。私なんかよりずっと英語出来るはずなのに、英語の出来ない私が家族と仲良くなっているのに、一緒に行った日本人の子とばかりつるんで。きっと、喋りたいことも伝えたいこともなかったんでしょう。

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「英語出来ないのに海外行って大丈夫なの?」
って言ってきたゼミ生の子に伝えたいです。

皆そんなに意地悪じゃないよ、って。分からなかったら繰り返してくれるし言葉を変えてくれるし、何とかして伝えようとしてくれるよ、何より少し交わすくらいの会話はそんなに難しい文の構成じゃないよ、って。

でもそれより、伝えたいことと伝えたい気持ちがなければ幾ら英語出来ても、きっとコミュニケーションなんて成立しないから。私が持っているのは、伝えたいことと伝えたい気持ちとほんの少しの英語だけだけど、私はたぶん明日も何とかやっていけそうだよ、って。

ノー、アイ キャント!

私は昔から英語が苦手でした。と言うより英語があまり好きではありません。

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お約束の中学2年生でつまづいてから、英語を理解できたと思えた瞬間はありません。えぇ、それでも高校の時は持ち前の負けず嫌いでテストの点数は良かったですが、だって範囲があるじゃないですか。範囲の部分だけ覚えてテストで記入した端から忘れていくという特殊技能の持ち主だった私は、英語の点数は良くても、じゃあこれを英訳してと授業中指されるとサッパリな生徒でした。

ライティングはダメ、リスニングはどこから問題なのかも分からない、スピーキングは優しくて控え目だった担当の英語教諭に
「……ちゅるさん、発音が悪いです」
ときっぱり言わしめるほどの腕前。



でもテストの点数は良かったから英語のスピーチ大会に出場させられたり、大学行くならと英検受験させられたりもしました。地獄でしたね。他の子はスピーチを覚える練習に入ってるのに一人だけ発音指導でしたね!英検準2級は受かりましたが、面接は19点以上合格で点数19点のスレスレでしたし。



でも結局、英検絶対受けろと言われて必死で勉強した内容も綺麗に忘れ。

聞いて驚いてください。1〜10まで完璧に英語で言えるかと言われると目を泳がせてしまいます。
そう言えばつい昨日のことですが、英語でホテルの金額を説明されて199と177を間違いました。ナインとセブンって何か似てるじゃないですか!フィフティーとトゥエンティーも似ているので改善をぜひ要求したい。



そんなこんなで英語圏出身の旅行者と出会うと『母語が世界共通語とかその時点でかなり有利じゃないか、ずるい』と変なやっかみを抱いてしまいます。

私は今日もアジア人に
「Can you speak English?」
と言われる日々を過ごしております。

星との距離について

「星のようにあってほしい人がいます。常に変わらず輝き、不安になったり迷ったとき、見上げればただそこにいる。近づくことはないけれど、遠ざかることも決してない。
 求めるのは、星の距離感。」



坂木司さんの小説『夜の光』の“あとがきのような献辞”にこんな文章がありました。読んだ時、あ、私もだ、って思いました。



その人の才能が大好きだけれど個人的には知り合いたくないなと思う方が何人かいます。
言い換えるなら、才能をいつまでも愛していたい人とは個人的な繋がりは絶対に避けたいです。
どんなにファンであっても、いえ、その人の作品の深いファンであればこそ、です。好きであればあるほど、自分の中のその人へのハードルは上がっています。作品とその人は別物なのに、いつの間にかそれを忘れてしまう。だから余計なものを目にしてファンを辞めたくなくて。余計なものを目にして純粋に作品を愛せなくなるのが恐くて。



誰かのファンであるとか何かが好きだということは、それを星のような存在にしたい、ということなのでしょう。神様とか守護霊とかそういったものと同じような感覚で、自分を守ってくれている気持ちになるからです。近づくこともないし遠ざかることもなく、そこに存在さえあれば勇気をもらえる。



でもだからこそ、求めているのは星の距離感であって近づくことでは決してないんですよね。輝く星に近づくと燃えてしまうように、近過ぎると知らなかった欠点まで見えてしまうから。幸運であっても、それによって元のように愛せなくなるという不幸まで呼ばれてしまうのは辛いです。



ずっと前に
中島みゆきが今ここに来たらどうする?」
と小学生の女の子に聞かれたことがあります。あの時は
「驚きすぎて倒れる」
なんて答えてしまったけれど、今なら、
「会いたくない。ずっと好きでいたいから」
と答えられます。
星との距離感は、何光年であってもいいと思います。


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好きなものはスキと

(注)
ちゅるゆーかです。いつもご覧頂きありがとうございます。
この記事には注釈をまず付けさせてください。
私の利用しているnoteにはフォロー・スキ・コメントの機能が付いています。言及しているスキは☆の形をしていて、ワンタッチで投稿に意思表示ができる機能です。ちなみに自分の投稿にもスキできます。
こちらに投稿するかどうかは迷ったのですが、はてなスターや購読にも通じるものがあるかもしれないと思ったので投稿しました。

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とある方にフォローされました。
その人を私はだいぶ以前からフォローしていて、確かnoteを始めた頃にフォローした気がするのでもう一年近く、その人の投稿を楽しみにしているんです。
それで、その方の投稿がタイムラインに流れてきたので、ピッとスキしたんです。そうしたら、まもなくフォローして頂きまして。嬉しかったです。でも、気付きました。



私、その人からフォローされてないのはその人の感覚に私の書くものは合わないんだなぁって解釈していたんです。でももしかしたら、私の存在を知らなかったんじゃないかって思えたんです。



だってよく考えてみると、その人の投稿にスキをつけたのは初めてか大分久しぶりだったんです。癒やしとして楽しみにしているのにも関わらず。
好きなものにはスキってちゃんと意思表示しないと伝わらないんだなって思いました。すごく当たり前なんですが、実感しました。こちら側からはどれだけファンのつもりであっても、スキしたりコメントしたりしない限りは気付いてもらえないなんて当たり前なんですよね。



思い返すと、タイムラインを遡って読み返た時に『これ前も見たけどやっぱりいいなぁ』と再見しているものにスキが押してないことが結構よくあるんです。それは深い理由があるからとかではなくて、見て、自分の中で完結させてしまうからなんです。あぁこの投稿も素敵と思ったり、その後うわぁやっぱりスキいっぱいあるなぁと思ったり、そうしてそのままスキをつけないまま次に行ってしまうからなんです。
気付いたら『これにスキしてないとか私バカなのかな、見る目ないと思われるんだわ』と思いながらスキするんですが、たぶん、スキしていない漏れってかなりあるんですよね。



私もスキを頂く人は名前もアイコンも覚えているし、この人にスキしてもらえた!とか、あの人から最近スキ貰えないのはレベル落ちてるのかなとか、この人から今日も貰えて良かったとか、かなり一喜一憂します。この文章はあの人が好きそうだなとか、今日のは良く書けたからこの人からスキ貰えるかもしれないとか、こういう系の文章はあの人からスキ貰えるんだよねとか、そんな分析もかなりします。……気持ち悪いと笑ってください。



でもとにかく、これからはきちんと、好きだなって思ったらスキしようと思いました。好きなものはスキと意思表示しないと伝わらないと分かったから。自分に当てはめてみれば簡単なのに、どうして気付かなかったんでしょうか。