ちゅるゆーかの頭の中を晒すブログ

ちゅるゆーかの頭の中

出会わなければよかった人などないと笑います。

もやもやの先

地元の空港で、高校の同級生が働いていました。それを見てから、何だか気持ちが落ち着かないので書いてみようと思います。
何なんですかね、妬みとかそういう感情ではないんです。でももやもやするんです。私は何にもやもやしているのでしょうか。自分でもよく分からなくて戸惑っています。


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高校の同級生は、私ともう一人以外は皆働いていると思います。卒業後すぐに就職した人も多いです。地元でよく会う友達も皆働いていますし。
だから同級生が働いていることにショックを受けたわけではなくて。でも、考えてみたら私、同級生が働いている姿を見るのは初めてだったんです。



私ももうすぐ22歳になります。結婚をした同級生も、子どもを産んだ同級生も、いて不思議はなく実際にそんな風の便りを聞くこともあります。
焦りとか妬みとかそんな感情は欠片もないけれど、若干の寂しさを感じていないと言ったら嘘になります。ライフステージが変わっていくことは、それだけ共感できることや共有できることまでも減らしていくと思ってしまっています。
置いて行かれるという表現はちょっと違うけれど、離れていくというのも違う気がします。劣等感でしょうか。知らないうちにいつの間にか川で隔てられていて、その川の流れが少しずつ早く大きくなっていくのを見ているような。そんな例えが一番しっくりきます。



働いているあの子が眩しいと思うのは事実です。働いている人たちに、何となくの劣等感や遅れを感じてしまうのも。
でも羨ましくはない。私は私で、私が欲しい未来をきっと手に入れてみせる。そう思った時、夜の上の飛行機から街の灯が見えました。

下手くそでいたい

昨日、一年前の8月に書いた自分の文章を読み返しました。なぜこんなものをネットに晒し続けていられるのか……と思うほどのへったくそな文章でした。



びっくりしました。そんな下手くそな文章書いているって自覚なかったですし。
それよりフォロワー数伸びないってことに当時悩んでいたので。
そりゃ増えませんよおねーさん。そんなめちゃ下手くそな文章で。スキしてくださる方とフォローしてくださってる方に土下座しなさいな。
と、過去の自分には言いたいです。



でも、ちょっと嬉しかったです。
だって、少しだけだけど、一年前よりも文章が上手くなってるとも言えるじゃないですか。だから嬉しかったんです。
私、ちょっとは文章上手くなりましたかね。漢字の使い方は最初の頃よりはかなり意識できるようになったんですよ。書き出しは工夫して、って思いますけどいっつも同じような感じになってますよね。一年前の見たら、題名のつけ方は今の方が断然上手になってますよ、昔のは駄目ですね。ある人の文章が読みやすくて、それは段落が2行空いているからだと気付いて、それで私も2行空けるようになったんですよ。最初の頃は600字くらいしか書けなかったけど、倍くらいは書けるようになったんですよ。



もちろん、過去の自分が書いた文章も愛しいです。自分、こんな下手くそで、感情だだ漏れで、必死になって表現してたんだなって思えて呆れるやら愛しいやら。
嫌いにはなれないし、ダメなやつだからこそ私が守らなくちゃ、みたいな。
ダメダメでも剥き出しでも書いて書いて書いて、ここまできたんだなって小さな満足感。
書いてきて良かったなって思えました。あの頃は誰のために書いているかも分からなかったけど、ちゃんとここに届いてるからってあの時の自分に伝えたくなりました。



一年後には今の私の文章も下手くそって言えるのかなと楽しみです。
下手くそって言いたいです。ど下手だって言いたいです。もっと上手くなりたいというより、自分でもっと手放しで褒められる文章を書きたい。
成長、したいです。今の私よりも過去の私が優れているなんて思いたくないですから。

寂しいの

なんだか、寂しいなって思った。


だから誰かを呼び出して、パフェ食べに行きたい。
……パフェ食べたいだけなのかもw
実際は、こんな時間だから水しか飲まないけど。


うんと年上の人と付き合いたいなぁ。
うぅん、幾つでもいいの、私の全部の問いに答えをくれるなら。
だからあいつがよかったんだよなって考えて、とっくに諦めがついたはずなのに何考えてるんだろってなった。


私は寂しい。

酔っ払って書くなんて

本当に珍しく、こんな時間に一人でお酒なんか飲んでいる。
ぽーっとしていい感じにふわふわする。



そもそもご飯の後にお風呂というのが珍しかったのだけれど、軽めにご飯を食べ終わりゆっくりと半身浴をして、まだ余裕のある身体から毒素という毒素が抜けていった感覚を味わうと、今度は水分がどうしようもなく欲しくなってしまって、今に至る。



二杯分しか残っていなかったみかん酒は、今の段階で1リットル以上の水を必要としていて、残り4分の1を飲み干すのには1.5リットルのペットボトルで冷やされていたこの水は飲み干されるだろうと思う。
たかだか250ミリリットルに対し1.5リットル。恐ろしい。私は今日何回トイレに起きるのだろうか。



話は全く変わるのだけれど、昨日の朝ミャンマーのビザを申請した。ネット上で取れるビザ。お値段50ドル。ヒャー。
本当はバンコクで取れば半分の値段で済むのだけれど、ミャンマーに直接飛ぶ安い航空券があったので、航空券代を考えると、バンコクに飛ぶよりも50ドル出した方が安いという判断の下、決断した。
そのビザがなんと、昨日の夜届いていた。朝申請して、夜。
3営業日掛かるのではなかったのですか!仕事早いなミャンマー政府!!



ってことでミャンマー政府、なかなかのやり手の模様。
まだミャンマーって国がどんな国か全然調べてなくて、一番心配なのは、飛行機の到着が夕方だからいっそ空港泊してしまうかそれとも何とか宿探すかってこと。
これは切実ですね。夜は怖いからね。それも初めての国でね。迷うなー。



ああ、お酒が効いてきてすごく眠たい。
もうこのまま寝てしまおう。早く歯磨きしなくちゃ。
ちなみに私、歯磨き粉はクリアクリーン派です。
おやすみなさい。酔っ払いより。

自分探し

【たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私を攫つて行つてはくれぬか】

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俵万智さんのエッセイでこの歌が紹介されていて、河野裕子さんを知りました。それから気にはなっていたのですが、エッセイ集を図書館で見つけたので読んでみました。
「わたしはここよ」。
読んでいて、すごくそれだー!と思った部分があったので、引用してみます。



『自分は何者なのか。それは誰にもわからない。けれど、歌をつくっているうちに、どうにも言い表しようのないものと思っていた自分の不安に輪郭がついてくるのがわかる。自分という人間の輪郭が見えかけてくる。』



皆そうなのだなと思いました。
表現することに救われる一面もあるのでしょうが、それより、表現することで自分と対峙する。
自分と向き合う術が、俳句だったり短歌だったりエッセイだったり小説だったり、もしかしたら絵や音楽かもしれない。そんな表現することで、自分と向き合おうとするんだなって思います。



文章を書いていると、イライラやもやもやが、なぜその形を取っているのかが見えてくるような気がします。
どうしてその物事にイライラするのか。どうして私がその出来事に疑問を持ってしまうのか。何にひっかかっているのか。
文字を入力していくうちに思いがけない言葉が出てきて、本当はこう思っているのかと自問自答して、思い直して、打ち直しているうちに違う考え方があると気付いて、書き終わった満足感よりも気付いた満足感、何かを捉えた満足感が大きいのです。



『わたしとはこのようなこころの形をしていたのか。呆気にとられ、愕然とし、励まされ、納得し、拒否し、嫌悪しながら自分の居場所が見つかったことに安心もし、自信がつく。』



私は私だけれども、私は常に私じゃない自分自身を探しているような気もします。
その手段が私にとってはエッセイとかそんな風に呼ばれるものなんじゃないかって今は思っているので、こうして書き続けることを選んでいます。



本の中で、『最近私はこういう歌を作った』と紹介されている歌がすごく好きです。


【風に向かひ風に屈みて歩みつつむかし老女だつたやうな気がする】


私、自分の中の老女を探し続けて表現しているのかもしれないです。

愛、愛

やっと小雨が降り出してきた。
朝から振りそうで振らない天気。そういう天気が一番嫌い。降るなら降るで、バーっと降ってカラッと晴れて欲しい。


愛愛とさっきからテレビで連呼されていて、胡散臭さしかない。私は愛する時は愛なんて連呼しないから。まぁ、愛してるって叫びながら愛する人もいるかもしれないから、これでいいのかも。
色々ありそうだからまた書いてみなきゃ。



歌人河野裕子さんの「わたしはここよ」に書いてありました。
『自分は何者なのか。それは誰にもわからない。けれど、歌をつくっているうちに、どうにも言い表しようのないものと思っていた自分の不安に輪郭がついてくるのがわかる。自分という人間の輪郭が見えかけてくる。わたしとはこのようなこころの形をしていたのか。呆気にとられ、愕然とし、励まされ、納得し、拒否し、嫌悪しながら自分の居場所が見つかったことに安心もし、自信がつく。』



安心しました。皆そうなのだなと思いました。
書くことによって救われる。
……あぁ、癖でですますが出て来る。



愛、愛。はいはい。それでいいよ。私は愛した人に告白すら出来ずに終わったから、愛してるって言った方がいいよねやっぱ。友達にもようやく言えるようになったから、まだまだ修行しなきゃ。
お風呂入ろ。

とりあえず、今日。

日記みたいに書いてみることに決めた。
今まで書いていたみたいな投稿は、時々していかなきゃたぶん自分が保てないですが、でも、これからは、もっと等身大に書くことを増やしてみようと思います。これまで背伸びしてなかったって言ったら嘘になるので。とりあえず、ですます調をやめてみようかなって。



飽き性の私のことだから、この書き方もいつまで続くか正直分かんない。
まぁでも、それでいっか、って思ってる。とりあえず、続けたいって思った自分の気持ちだけ大事にしたい。



今日は頂きものの魚を刺し身にした。手が魚くさい。
包丁を入れながら、これまで幾つの命が私のために犠牲になったんだろうって思った。私は幾つの命の上に立っているのだろうって。
何万じゃきかないだろうな。
私は、生きなきゃいけない。



これまでブログを書く時は、トークノート以外は全部ですます調だったから、こんな風に書いていると、本当にこれ投稿していいのかなって思えてくる。
でもそのうち慣れるでしょ。

S先生へ

こんにちは。S先生。突然なんですが、私に一年前送ってくださったメールを覚えてらっしゃいますか。
論文ですかと突っ込みたくなるようなあの長いメールに私は結局返信をしなくて、それが引っかかっていました。自分の中での折り合いをつけるために、とにかく、どんな形でもいいから返信を書いてみようと思ったのでこれを書いています。



あのメールには本当に衝撃を受けました。というか、ぶっ飛びました。

既に作り上げられている思考の枠組みに収まりきらない新たな「情報」と遭遇することで、自分自身の中にある種の「軋み」や「違和感」が生じる場合があります。その時、「軋み」や「違和感」の持つ意味を問い直し反芻する姿勢を持続できた者だけが、自己の思考の枠組み自体を再構成するきっかけを掴むことができるのです。ちゅるはそうした思考回路を持っている稀有な存在だ。


先生が私を高く評価してくださっていることは知っていました。まぁ先生もそれを伝えようとしてくださってたので当たり前の話ですが。
けれど、ここまでとは思わなかった。それが、正直な感想でした。
私には自分のことをそんな風には思えなくて。先生がどこを見てそう感じたのかも分からなくて。

だから、自分の中に生じた「軋み」や「違和感」にこだわり続けなさい。


先生。『自分の中に生じた「軋み」や「違和感」』って何ですか。私は『思考の枠組み自体を再構成』してるんでしょうか。
私の中のスタンダードと世の中の社会常識が、いつも引き起こす不協和音は、いつか私を育ててくれるのですか。
不協和音は嫌いです。小さな頃から、変わっていると言われてきました。それを直そうとして失敗し続けてきました。自分が間違っているのだと信じてきました。



不協和音に耳が痛くて、頭が痛くて、他人と合わせられない自分はどこか欠陥があるのだ、と思わざるを得ないこの世界で、一人で闘わなければならないと心を痛めたこともありました。

誰が何と言おうと、そんなことは一切気にしなくていいから、自分の思うままに進んで行きなさい。
ちゅるの未来を遮るものはなにひとつありません。未来は果てしなく開かれています。


未来は開かれているでしょうか。世界は私を受け入れるほど広いでしょうか。
先生は、私よりも私のことを見透かしているのですか、私のことを買い被りすぎているのですか。
私には分かりません。私には分からないことだらけです。未来は、私に優しいでしょうか。



手紙だからこの際、言い辛いことも言ってしまいます。
これからも、私を信じていてください。私は私のままでいいと言ってください。これからも、私を教え諭してください。
私は毒を吐きながら先生からたくさん吸収して、そんな私を先生が面白がって、私がうんと大人になって、先生が歳をとって、そんな年月を重ねていつか、先生が見たことのない世界を私の肩越しに見せる。そんな夢を見ています。



先生に買い被ったと後悔させないように、頑張ってみたいです。先生が私を信じてくださるように、私も私を信じてみたいです。
これからも、私の先生でいてください。



ちゅるゆーか




P.S.
S先生自身がもし、もしもこれを実際に読まれたら、あぁメールの文章と実際の言葉遣いが著しく乖離しているあいつか、とすぐに分かるでしょうから、そうですね、雑用しますので許してください。メール待ってます。

評価の順番

先行者優位という言葉が嫌いです。



noteがバブルのように流行った時、先行者優位という言葉をたくさん見かけました。
早く始めなよ、という意味も込められていたのかもしれません。でも、私は違和感しか抱けなかった。
先行者が有利であってはいけない、一番遅く参加した人であってもその人に才能がありさえすれば一番に認められるべきだと思います。
チャンスは平等っていうのも幻想だと思いますが、でも、その幻想に現実は限りなく近付いていくべきです。



年功序列、という言葉と似たものを感じるのです。というか、限りなく同類だと思っています。
早く就職したものが上に。早く始めたものが有利に。
年功序列なんてくだらない、そう言っている人たちが先行者優位なんて言っているのに違和感を覚えました。
能力や才能は、時間なんて超えると思うのに。

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本当は先行者優位であって欲しいですよ、noteの世界もブログの世界も。だって、私よりずっと後に始めた人で素敵な文章書く人たくさんいるんですもん。
ため息をついてしまう文章、憶えてしまうほどおすすめ表示されるアイコン、みるみる増えていくフォロワー数。私は嫉妬深いから、自分より才能がある人なんだと分かってはいても、何となく心がチクリとする。
それが、例えばこの人は私よりもnoteを早く始めたからなんだ、と理由がつけられれば私はきっと安心します。私の才能やその人の能力とは関係のないところで完結出来るから。
自分の才能のなさを、認めずに済むから。それはちっぽけなプライドと大きな自尊心を傷付けずに済むから。



それでも、自分を逆の立場に置き換えた時、私は自分自身に一番残酷になります。
一番早く始めたつまらないもの、一番遅く始まった面白いもの。私は迷うことなく後者を取りますし、前者にどんなに今までのストックがあったって構うものか、と思います。
確かに、前者には『早く始める』という才能があるのかもしれない。でも私が求めるのは、『素晴らしいものを生む』才能。
私が前者であった時、私自身を選ばれてもきっと嬉しくありません。だって、私の欲しいものは『素晴らしいものを生む』才能なのですから。



『早く始めて素晴らしいものを生む』、それは確かに先行者優位でしょう。先行者は大きな存在です。それでも、『始めるのは遅いけれど素晴らしいものを生む』人と等しく評価されるべきだと思います。
市場とか集客とか収益とか、そんなことを私が気にしていないからかもしれません。



でも、いつやって来た人も等しくここを楽しめるように、私は先行者という立場を捨てたい。捨てられないのなら、せめて、後行者というレッテルは貼らずにおきたい。
いつ投稿されたものであっても、何より私が楽しむために。
先行者優位なんて、大嫌いです。

仏壇と未来

最近、仏壇に手を合わせると亡くなった祖父の顔を思い出します。

祖父が生きていた頃、私や妹が仏壇に手を合わせるのを、とても嬉しそうに見ていました。私はそれを、決まりというか伝統というか、そんなものを守っているのが嬉しいんだなと思っていました。でも、祖父が亡くなって、なんとなく、祖父の気持ちが分かるようになりました。

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祖父は戦争に行って、生きては帰れないだろうと覚悟していたのだそうです。一度は自分を死ぬものだと考えた祖父にとっては、死ぬことはそんなに怖くなかったのではないか、そう、勝手に予測します。

けれど、自分が死んだ後のことは自分には分かりません。未知への不安があったのではないかと思うのです。そう考えた時に、私たちが仏壇に手を合わせるのに安心したんだろうと思い至りました。



祖父は自分が死んだ後のことを考えていたのだと思うのです。遠くない将来に、自分が死ぬこととそしてその後のこと。その時に、仏壇に手を合わせる孫の姿に、安心していたのだろうと思うのです。
自分が死んだ後も、きっとこうしてくれる。そう、嬉しかったのではないかと思うのです。



死ぬことへの恐怖は誰しも多少はあるのでしょうが、自分に手を合わせてくれる人が一人でもいると思えたら、少しは安心できる気がします。祖父は自分がいない未来ときちんと向き合って、手を合わせる孫に希望を見い出せたのかなと思えたら、少しは私も孝行が出来たのだろうと嬉しくなりました。



私が死んだ後、私に手を合わせる人はほとんどいないでしょう。私は結婚しないし子どもも産まないから。
自分が手を合わせているからか、確かにちょっと寂しい気分になります。そして、手を合わせる人を増やせなくてごめんなさいと、ご先祖に対して申し訳ない気持ちも少しあります。

それでも、私は私なりに自分のいない未来と向き合っていきたいなと、そんなことを考えた、お盆です。