ちゅるゆーかの頭の中を晒すブログ

ちゅるゆーかの頭の中

出会わなければよかった人などないと笑います。

彼女の手紙から

昨日、たまたまTwitterで、アンジュルム笠原桃奈さんが卒業したことを知りました。
……こう書いてはいますが、私はアンジュルム笠原桃奈さんのことも何一つ知りません。ご本人とファンの方には申し訳ないのですが、存在すら初めて知ったのです。
私にとって彼女が一個人として認識できる存在になったのは、たまたま、卒業コンサートでの彼女が書いた手紙を読んだからです。
すごくいい文章だったので、残しておきたいと思っいました。


(元の文はこちらを参照しました。)


何事も楽しいとか、うれしいだけでは語れないこと、強さも弱さも持っているから感動を知れること、大切なことをたくさん教えてもらいました。

自分の中で簡単には消化できないようなつらいこともあったけれど、今はそんな出来事を経験しなかった自分を想像すると少し怖いです。


人生には陰の部分と陽の部分があってそれらは必ず隣り合っていて、そこを無視しては生きていけないという至極当たり前のことが、こんな平易な言葉で表された文章を私は他に知りません。
嫌なことも苦しいことも飲み込まないと人生の良さが享受できないなんて言うつもりはありませんが、それらを経て初めて分かる煌めきがあるのではないかと、最近思えるようになってきました。
悲しいことに、それを実感できるのは私の場合いつも何かの「終わり」で、だから一瞬の輝きばかり追ってしまっているのではないかと反省しています。


今、何にも代えられないものは、この先何に出逢っても代えられないもので、
それは過去に、未来の私の中に在り続けるんだと思います。
(略)
すべてが今でもきらびやかでまぶしいのに、いつか思い返したときそのまぶしさに、私は耐えられるのかなと思ったりもします。


今が幸せだと未来が怖くなる気持ちが私の中には常に存在していて、いつか利子というのかリバウンドというのか、そんなしっぺ返しがあるのではないかと考えてしまいます。
それが私だけではないのだなと思わされました。私は彼女のことを何も知りませんが、もし彼女が明るい人なら、切なさやネガティブを隠し持っているから明るさが際立って見えるタイプの人だと想像しました。


いつ何時も私が思うのは、
きっと、出逢えるというのはすべての人に平等には訪れないんだろうなということ。
このあたたかさを、優しさを知っている私は私を、特別だと思えます。


ただ、ここだけは私の意見とはちょっと違います。
出逢いの機会は、きっと人間には平等に与えられているものだと思います。ただし、それを掴めるかどうかが個人によって異なるのではないでしょうか。
だから人間には、余裕が大切なのだと思います。いつだって出逢えることを大切にしたくてそれに気付いている人が、きちんと機会を生かして出逢えるのだというのが私の考えです。例えそれが、人ではなく他のことでも。
だから、「あたたかさ」と「優しさ」を知っている自分を特別に思う彼女は、自分を褒めるべきなのだと思います。それを手繰り寄せて、自分の中に大切として確立した自分をです。

私は明日からも、私らしく、変わらないものと変わりゆくものを抱えて、進んでいきます。


進むしかないということ。それを受け入れるしかないということ。それらは諦めのようでいて同時に前向きに生きるために欠かせないものです。
彼女にとっての変わらないものと変わりゆくものが何かは彼女自身にも分からないはずで、だからこそ「未来」です。

18歳でこの文章が書ける彼女の未来が、彼女にとってより幸せを感じられるものであるように祈ります。