ちゅるゆーかの頭の中を晒すブログ

ちゅるゆーかの頭の中

出会わなければよかった人などないと笑います。

これからも荒波の中

「社会は厳しい」
学生時代、ずっとそう言われてきました。

けれど社会人になって、なんて生きやすいのかと感動すらしています。



学生と呼ばれている間、辛かったのは他人と違うことが許されないことでした。
それは学年が小さいほど顕著でした。
自分が他人と違うのかさえも分からなかった子ども時代、私は学校に心を休める場所なんて持っていなかったんです。
私は天才ではなくて、それ故変だと言われるのもある程度の囲いの範囲内にも関わらず、差異を敏感に感じ取る子ども同士の中で避けられ遠巻きに見られ、毎日が過ごしにくくて仕方がなかったのです。

大人は子どもに悩みなんてないと笑い飛ばしてしまいがちですが、悩みを解決する手段をあまり持っていない子どもにとって、大人にとっては小さなことも、より大きな悩みとなってしまうことは間違いがないと思います。
そもそも、他人の悩みを大したことがないと考えること自体が間違いだとは思いますが。



どうやら自分が他人と違う考えを持っているようだと気付いたのは小学校も高学年になってからで、私はそれまで、どうして自分が避けられるのかも分かっていない子どもだったのです。
中学生、高校生くらいになるとどこが違っていると言われるのかもうっすらと分かるようになり、だんだんと上手く振る舞えるようにはなってきました。それでも、どこかで地雷を踏んでしまう。どうして皆に変わっていると言われるのか分からない。そんなことを繰り返していました。
大学生になった時には、自分は変わっていることを納得はしないまでも受け入れはでき、面白がられる存在となるようにしました。
それでも、協調性を求められる場所ではやっぱりきつくて、そんなことも原因で休学もしたのでした。


休学をして、海外をふらふらして、大学に戻る頃には変わっているというところを強調して武器にすることを覚えました。
年が違うという受け入れて貰うには、違いを明確に出すしかないという考え方になったが故のことでしたが、とても生きやすくなったように感じました。



社会人になった今、周りに恵まれ、「変わっている」とは言われてもそれを個性だと周りが思ってくれるようになりました。
そして私自身が、それを個性として推すことで目立つ存在になろうとできるまでになりました。
協調性だけでなく、積極性や独自性やコミュニケーション能力も求められる社会の中、他人と同じだということ以外を評価されることで私は、自分自身の居場所を見出すことに成功したのです。



長かったです。
私は、自分にはよく分からないものに苦しめられてきました。
これ以上に苦しい社会なんて、どういった場所なのかと思っていました。
しかし、子どもの時のようにスケジュールを全部決められてしまうこともなく、他人と同じでなければ奇異の目で見られることもない場所は、今、とてもとても生きやすい。



だから、あの頃の私に言いたいです。
学生の頃が一番良いなんて、嘘。子どもに悩みなんてないと笑う大人ばかりだったけれど、嘘。
あなたがあなたらしく生きられる世界をつくれるように、今を精一杯生きてって。


もちろん今も、生きにくいと感じることはあるけれど昔ほどじゃない。
たぶん傍目には、私には悩みなんてないように見えるでしょう。それは、過去の私が今の私の分まで苦しみを背負ってくれていたからです。
ありがとう、私。



歳を取ることは怖いけれど、今よりももっと楽になるかもしれない。
だから、希望を見失わずにいたいです。