ちゅるゆーかの頭の中を晒すブログ

ちゅるゆーかの頭の中

出会わなければよかった人などないと笑います。

だから見知りたい

明日、父親はお葬式に行くらしいです。地元の知り合いが亡くなったらしくて。
でも、私は悲しくありません。



震災の後熊本に行った時会った、家を失った人が
「今街頭インタビューされたらね、まず東日本大震災の被災者の人たちに謝りちゃー」
と言っていました。
「他人事だったつたい、震災なんて。自分がこげな目に合うとか想像もしてなかったけん。水がないとか眠れないとか、何の話かて思いよったつたい」



亡くなったと聞いても悲しくないのは、その亡くなった人を全然知らないからです。今まで、会ったこともないからです。
震災が起きても心が痛まないのは、その地に大事な人がいなくて、それがテレビの向こうの出来事で、他人事だからです。

関わりのない人を思いやるというのは、なんて難しいことなのでしょうか。
テレビの向こうでは、今日もたくさんの人の死が報じられて、それを自分のこととして考えられる人が一体どのくらい存在するのでしょうか。



中島みゆきさんの「顔のない街の中で」という歌の歌詞の、この部分が好きです。
『ならば見知れ
 見知らぬ人の命を思い知るまで見知れ
 顔のない街の中で
 顔のない国の中で
 顔のない世界の中で』



私は、私の知る範囲の人のことしか考えられないです。見ず知らずの人たちのことを心配して、涙を流すことが出来ません。
熊本の地震であれだけ泣いたのは、知っている人たちがたくさんいるからでした。東北で地震が起きて、津波の映像を見ても涙だけは流れなかったのは、私の知る人は被害に遭っていないからでした。

それを心がないと責められるのは当然かもしれないし、私は冷酷なのかもしれません。

でもそれなら、毎日ニュースを見ながら私たちは泣かなければいけません。移民問題、難民問題、戦争、紛争、テロ、犯罪。地球上に起こるあらゆる不幸を自分のものとして考えることは、私にはまだまだ無理です。



今はまだ、見知らぬ人の人生が失われることを私は悲しめません。

それでも、私は、次に地震が起こったら泣くと思います。屋根が落ちた家も、狭い避難所も、もう自分のこととして考えられるから。次にアジアで問題が起こったら、今まで出会った人を思い出して泣くと思います。一度感動した景色を、無くしたくないと考えられるから。

私は、そうやって、大人になりたいです。