ちゅるゆーかの頭の中を晒すブログ

ちゅるゆーかの頭の中

出会わなければよかった人などないと笑います。

私の名は希望

休学して海外へ行こうという意志を告げて、反対した人は私の周りにはいなかったように思う。


年を重ねるに連れて、年をとればとっただけ縛られるものが多くなってくるのだと学んだ。
家族や親戚、仕事や世間、付き合いにお金。あらゆるものと繋がりながら人は生きている。
守っていきたいものがあり、守らなければいけないものがある。そんな大人たちは、一人で旅になど出れない。出たくもないのかもしれない。けれど、心のどこかで自由な生き方に誰しも憧れているのだと思う。
「勉強しろ」「こんなところにいてはいけない」「外へ出ろ」etc……色んなことを言われた。日本にあるものを捨てて身一つで飛び出せる私に、何かを託したいのだと思う。
捨てられない。捨てたくない。そんなものがまだない私の人生は、遠くから見てるとたぶん面白いのだろうと思う。堅実な生き方をして満足していても、自由な生き方は眩しく映るのだろう。自分のものにすることは躊躇ってしまうだろうけど。


私だって違う生き方に憧れることもある。結婚して、子どもがいて、孫ができて。海外なんて遠くのことで、テレビで見るだけの世界。
でも、私には出来ない生き方だなとも思う。
自由な生き方をしていれば、したいのであれば、結婚はおそらく無理だろう。と同時に子どもは持たないだろう。そうすると孫は出来ない。
そう、何かを選択することは、それ以外を捨てるということなのだ。
どんなにきらめくものでも、捨てなければいけないこともある。捨てざるを得ないこともある。
けれど、それが忘れられないとき、人は他人に託すのだろう。(子どもである場合は不幸が生じる場合もあるけれど)


私は希望だ。その場所にいなければならない人たちの、送ってみたかったもう一つの人生の。
「こんなところにいたくない」そう思う人からは、「こんなところにいつまでもいてはいけない」と言われた。「もっと勉強すれば良かった」と思う人からは「もっと勉強しろ」と。「留学したかった」人からは「外へ出て色々なものを見た方がいい」と言われた。
しがらみを持つ人たちは、幸せだと思う。守るべきものがあって、守りたいものがあって、それに守られている。
かといって、守るものも守るべきものもない私も幸せではない訳ではないけれど。でも、それだから旅に出たくなるのだろう。


他人と変わっていることを恐れない私は、ある意味では世の中からとても必要とされているのだろう。
自分のために生きながら、誰かが見て笑ってくれるといいな。
こう思いながら、私は今日も「変わっている」という言葉を褒め言葉だと受け止め続ける。