ちゅるゆーかの頭の中を晒すブログ

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出会わなければよかった人などないと笑います。

彼らの現実と私たちの闇

大学のゼミの同期生が、卒業旅行に行って帰ってきました。
私は休学して来ているマレーシアとインドネシアで、入ったままのグループラインの大量の通知を迷惑に思いながら眺めていました。

同期が行ったのは南国。そして飛行機の関係で韓国。その卒業旅行の報告がゼミのブログに投稿されていて、溢れた写真の一枚に、こんなコメントがつけられていました。

「韓国の闇が写ってます……」



問題の写真は、駅構内での写真なのですが、よく見ると確かに、小さく物乞いの姿が写っていました。
ああ、これは闇と呼ばれるのか。不思議な気持ちになりました。



インドでは、彼らはいて当然の存在でした。道路端や列車の中や人混みの中、彼らは自分の存在を主張していました。
人で溢れる観光名所では、五体不満足大会という言葉が頭に浮かんでしまう、そんな人たちが器を差し出していました。思わず目を背けてしまうような、そんな光景も人も目にしました。
彼らは「闇」なのでしょうか、彼らは隠されるべき存在なのでしょうか、彼らは存在を許されないのでしょうか。



いつの間にか、私は彼らを、「現実」と心の中で呼んでいました。
日本という社会では巧妙に隠されているだろう現実。生きたいと、彼は全身で叫んでいました。自分は生きるのだと、彼女の目は私を見据えていました。明日も生きてやるのだと、あの子は私を睨みつけていました。

彼らは、彼女らは、あの子たちは、私かもしれなかったし、私かもしれないし、私になるかもしれない存在でした。彼らは正面から、私を試していました。「現実」という巨大なものを纏いながら。



手を差し出したい人が、きっと日本にもいるだろう。そう思いました。助けてくれと言えないだけの人が、きっと日本にもいるだろう。そう思いました。餓えて死ぬことを選んだだけで、そうならなかった人が日本にいる。そう思いました。


大量の汗の匂いのする列車の中で、
「世界はまだまだ貧しいだろう」
と言ったおじさんに、日本にもまた違った形の「現実」があると、英語もタミル語も出来ない私は伝えることが出来ませんでした。



誰もが何かを学びとるというインドで、私は現実を知りたくくて見たくなくて、インドの広さに圧倒されていました。
ただ思いました。もし私が、明日食べるものに困ってあらゆる手段がなくなったら、私は彼女たちになるだろうと。生き延びてやると叫ぼうと、そう思いました。



物乞いは韓国の闇かもしれません。でも、それがないことをただ誇ることも日本の闇かもしれません。
私は卒業旅行には、行かないと思います。