ちゅるゆーかの頭の中を晒すブログ

ちゅるゆーかの頭の中

出会わなければよかった人などないと笑います。

図書館員のドラマ

幼い頃から、週に一度図書館に通っています。だから当然図書館員の顔も覚える訳で、高校生の頃、若い女の人が新しく働き始めたのも知っていました。
ほわほわした雰囲気の人で、いつも笑顔で、キレたことなんてないよなという感じの人。
ある日、通っていた高校の、幾人かの卒業生を招いての講演で見覚えのある顔だなと思ったら、その人だったことがあります。



高校を卒業してから短大へ入り地元の市立図書館へ就職した、とYさんの話は簡単に言うとこんな内容ですが、そんな風に続く講演に退屈していた高校生たちが、講演会が終わった後、Yさんの話で持ちきりになったのです。

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短大で就職出来るようにと司書の資格を取ったYさん、卒業を前にして図書館で働きたいと思って探しても、就職先が見つからなかったそうです。
「本が好きで図書館員になりたかったのですが求人が全然なくて。ないならこっちから探すしかないと思って、あちこちの図書館に電話を掛けました。
でもどこも人数は足りていると言われて断られ続けて」



天然ぼけでのっけの自己紹介からしっかり笑いを取った彼女の話を、珍しく高校生たちはきちんと聞いていました。
司書って飽和状態で仕事ないんでしょ?とざわめきと、求人ないのに電話を自分から掛けるとかすごくない?とほわほわしたその人からは考えられないエネルギーへのため息で満たされた空間で、私たちは続く言葉を聞いていました。



「何度も電話を掛けていたので、『またあんたね』と電話口で良く呆れられていました。
特に、地元の○⭕市立図書館には絶対勤めたかったので、今週足りていても来週は足りないかもしれないと思って、毎週電話をしました」
毎週電話! 高校生の私たちの間から笑いが漏れた時、彼女も笑顔になりました。
「毎週電話していたら、卒業の直前に、一人採用枠があるからと言われて採用されたんです。就職してから、電話攻撃に館長が負けたんだよ、と他の人に言われちゃいました」



『あの図書館の人すごくない?』
体育館を出てからあちこちで聞こえる会話はそれでした。
『分かるー、毎週電話とかパないわ』
『やばすぎでしょ』
驚きというよりも、感嘆。賞賛というよりも、尊敬。



「就職先が決まらずに卒業するのかなと思っていたので、第一希望に就職出来ることになって嬉しかったです。
皆さんも、就職先が見つからなくても、諦めずに最後まで頑張ってください」
 


笑いと、それから衝撃を高校生に与えてくれたYさんは、今日も図書館で働いています。

クリエイティブでないんですが

私は0から1を生み出すということがとても苦手で、自分の頭で考えたものを形にするということが出来ません。図画工作も昔から苦手だったし、曲を作りなさいという音楽の課題も出来なかったし、小説なんて何回チャレンジしても書けないし、デザインを考えることも出来ません。



私は思ったことが全て顔に出るタイプで、すぐに考えていることを当てられてしまいます。感じたことを感じていないかのように、考えたことを考えていないかのように、そうすることが出来ないのです。
それと同じように、文章でも私はフィクションを書くことが出来なくて、だからnoteの文章は全て実話だし私が体験してきたことで、実際に考えていることしか書いていません。
それは単に書けないからで、他の人の作品を読んでフィクションを書いてみたいと思っても、全然アイディアもトリックもどんでん返しもストーリーも登場人物も浮かんでこないので、諦めているだけなのです。
だから、フィクションを書いている人は本当にすごいなと思います。見ていないことを見たかのように、体験していないことを体験したかのように、そう書けるのは羨ましい限りです。

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簡単に言ってしまうと、私の文章はクリエイティブとは言えないよなぁって思うんです。何かに対する意見でもなければ、生産性のある文章ではない。



こんな読者の私は、ネットの世界にに流れているたくさんのものが支えです。更新して新しい作品が表示されると嬉しくて、( ・∀・)←こんな顔になっています。
クリエイターの皆さんにこれからも楽しませて頂けますように。そして、私に創造性が少しでもつきますように。



そんなことを、考えました。

裏切りの準備

私は、他人を心の底から信頼することが出来ません。家族でも同様なことを悲しく思います。
いつからこんな風になってしまったのか、小学生の頃は逆に、全ての人を信じられると思っていました。クラスメイトだというだけで助け合うべきだと思っていたし、身の回りにいる大人を疑うなんてとんでもないことでした。



でも今、私は他人を心から信頼することが出来ません。心からというのは、信頼にも私の中にはレベルがあって、心からでなくある程度までは信頼出来る人もいるからです。

信じられない、少し信じられる、まあまあ信じられる、大分信じられる、とざっくり言うとこんな風に私の中では他人が分けられています。
きっと皆、心の中ではどの程度の仲かどこまでの友達かとお互いを図っているものだと思います。それと全く一緒です。

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「権力」というものを持っている人は、疑ってかかってしまいます。それは、身近な所では学校の先生たちや、少し離れると、子どもなりに社会の様子を伺うことで形成されたものです。

理解を示そうとする人ほど、私は警戒してしまいます。

成績が下がっても構わないと言いながら実際に下がると激怒した父親、正解はないから意見を自由に言うようにと促しながら、教師用の指導用教科書に載っていない答えを言うと黙ってしまった先生、ゆーかは頑張り屋だよねと笑顔を見せる一方で可愛げが無いと囁いた先輩、誰かに相談してくださいと薄っぺらい文字の並ぶ文部科学省からのプリント、言ってくれれば良かったのにと顔をしかめる同級生。



信頼してしまうと、それが裏切られた時に傷付いてしまうから、傷付きたくないから、なるべく傷が浅くなるように予防線を張っているのです。


だって、私は裏切られてきたから。



小学生の頃、鈍感と周りから言われてしまう今よりも更に鈍感で、他人の悪意にすら気付けない子どもでした。それは結果的にあの頃の私を守ってくれたのだと思いますが、その反動か、中学に上がってから他人は信用出来ないと徹底的に疑うようになってしまいました。

自分でも悲しく思います。それでも、今の今までそれは私を守ってくれています。心の傷は、深くいかずに食い止められています。



私は、でも、他人を信じてみたいなと思っています。
今の私にはそれはどうしても無理だとも思います。

けれど、いつか信頼出来る相手が現れた時に、笑える自分でいたいです。そう出来るにはどうしたらいいのか。全く分からないけれど、とにかく、他人を疑ってしまいながらも信頼したいという思いだけでも抱いていたいです。

彼女に学ぶこと

高校の同級生が結婚したことを知りました。
私が21ですから、彼女も21です。いえ、彼女は誕生日が早かったかもしれません。それでも、22です。どうやら授かり婚らしく。


バイト先の同い年の人が結婚した時はあまり何も感じなかったのですが、高校の同級生は、何だかしみじみしてしまいました。
21歳で誰かと一生を共に過ごすと決めるってすごいなぁと思ったり、仕事はどうするんだろうと余計な気を回したり。

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「結婚はしません。中学生の時に決めたんです」
と言ったら、母の友達がショックを受けていました。

失敗するのが怖いから、とは言えませんでした。彼女も彼女の息子も離婚していて、何だか悪いような気がして。

結婚も妊娠も、せずに一生を終えると決めたのは確かに中学生の頃でしたが、どうしてそう思ったのかは覚えていません。



私が一番怖いのは率直に言って妊娠です。こんな私の遺伝子を受け継ぐ存在が生まれ出る可能性に恐怖すら感じます。

でも、私は結婚しても離婚すると思うのです。どうしてと言われても決めつけるなと言われても、私はそうとしか思えないのです。
そして離婚すれば必ず傷付く人が出てくる。私はそれも怖いです。日頃、こんなにも自分中心に生きている癖に。
おそらく、傷付けることが怖いなんて言っているのは建前で、一度は愛すであろう人に傷付けられそして傷付ける勇気すら持てないのです。



結局のところ、私は覚悟なんて出来なくて、それで生きていこうとしている甘っちょろい奴なんだな、と現実を突き付けられて、それでもウエディングドレス姿の彼女はやっぱり綺麗で、高校の時から可愛らしい顔つきだったななんて思い出しながら。

私がこんなにも怖い、結婚と出産を受け入れた同級生は、本当にすごいと思います。

静かなテレビ

「ゆーかちゃんとテレビ見たくない」 と言われてしまいました。私には、黙ってテレビを見るということが出来ません。 絶対に、絶対に何か文句をつけたくなってしまうのです。

ちなみに冒頭の言葉を私に言った方は、高校生の告白再現VTRをテレビで見ていてキャーッと顔を覆って悶えていて、しらけて見ていた私が思わず、乙女か、とツッコミを入れてしまった33歳男性です。

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家族でご飯を食べる時、会話がなくなるからテレビを見ない方がいい――そんなことを昔学校で言われたことがあります。

けれど我が家では、テレビを見ていると喋りたくなる私と父親がいます。だから私と父親がわいわいとテレビにツッコミを入れ、それを聞いた妹と母親がいい場面なのにと怒り、これはこれでいいのだと反論し、私と父親が言い返し更にひねくれた見方を披露し、テレビをギャーギャー言いながら見ています。

朝ドラを15分見終わると母親は疲れたと言います。3分に1回は黙って見て!!!と怒るからで、それはいい場面になると茶々を入れずにはいられない私と父親がいるからです。

妹はドラマでもお笑いでも、何でも字幕を表示したがります。それは私と父親がテレビに意見する声と母親がそれに呆れている声にかき消される心配がないからです。

ワイドショーを見始めると、母親は聞こえないと言います。ツッコミを入れる私が止まらなくなって、次々とチャンネルを回してはリポーターと同じくらい喋るからです。

テレビはまぁまぁ好きです。大好きというほどではありません。ても皆でギャーギャー言いながら見るテレビは大好きです。つまらない番組は嫌いですが、「これつまんなくない?」と言いながら登場人物に対して意見を述べるのは好きです。

テレビは娯楽です。でも私にとっては、受け身の娯楽じゃなくて、自分で楽しくしていく種類のものです。 テレビが、見たいです。

教えてください

私には、分からないことが多すぎると思います。何かを知るたびに、そう思います。

だから今も昔も、勉強になった!と思えるその瞬間が好きです。それは学校で習うものだけじゃなくて、知らないことを知ったなと思えた瞬間のことです。

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学校で習うことだけが勉強じゃない、と言っていた父の言葉が、高校生ぐらいでようやく分かりました。人の心も世界の歩き方も学校の授業では教えてもらえないけど、知らないといけないことが世の中にはたくさんあるんだなぁと思った時、出会った人の哲学を知りたくなりました。

私は自分も自由でいたいから他人の行動にも人生にも興味は持たないのですが、他人の考え方や哲学やこだわりは聞いてみたいのです。 どうして、ここにいるのか。なぜ、これを選んだのか。今から、どこへ向かいたいのか。それを聞いて、自分の為に生かそうだなんて考えていません。私の考え方が他人の参考にならないように、それもきっと私の参考になんてならないと思います。でもだからこそ、聞いてみたい。

私の人生にはないものを知りたいのは、単なる好奇心だと思います。 それでも、その好奇心が多少でも満たされて自分だけでは発見出来なかったものを見つけられた時、勉強したなと思えます。自分の人生以上のものを得られたと嬉しくなります。

でも、知れば知るほど、まだ知らなければいけないことがたくさんあるなと思います。その時が一番幸せです。 世界は広くて、たぶん私が一生かかっても知り得ないことばかりで、飽き性な私でも生きるのにはきっと飽きないだろうと思えるのが本当に幸せです。

私は明日も生きたいと願うし、今日も他人の考え方を覗きたいと思ってネットの海へ繰り出します。

もっと『お知らせ』を!

最近、『お知らせ』という文字に胸が高鳴るようになりました。

大学に入ってスマホを持つようになってからウェブで漫画を読むようになりました。スマホには3つほど漫画アプリを入れていて、連載や公式のものもですが、プロではない人が書いたものを読むのが好きです。 そこには、どうしてこんな漫画を描く人がプロではないのだろうと疑問を持ってしまうほどの才能を持った人というのがやっぱりいて、なぜこの人に編集者が目をつけないのかと、一人やきもきしてしまいます。

でも、割と最近、好きな作家さんが立て続けにプロとしてデビューされました。書籍化だったり連載だったり、その人の書くものにお金が発生するようになって。

嬉しかったです。才能が埋もれなかったんだって思いました。埋もれる世の中じゃなくて良かったって思いました。

私は一読者でしかないから読むことしか出来なくて、連載とかデビューとかを実現できる力を持つ人たちがこの作品を早く見つけてくれるようにと願うしか出来ないです。せいぜい、お気に入りやおすすめやフォローをするくらい。 だから、『お知らせ』という文字を読むたびに、やっとか、という気持ちと名も知らぬ編集者さんに感謝する気持ちと、どんなものになるのだろうという期待で胸が高鳴ります。

noteにも、どうしてこの人の作品に値段がつかないのかと思う人がやっぱりいます。その人のアイコンをタイムラインで見かけると思わずにやけてしまう人が。 どうしてこんなにフォロワーが少ないのかと不満だし、運営からのおすすめで宣伝されるべきだし、というかお金を取るべき。と思える人がいるのは幸せなことですが、なぜこの人に世界が振り向かないのかと疑問でいっぱいです。

でも私には、やっぱりフォローやスキをつけるくらいしか出来なくて。もし私が神だったら、まだ作品に然るべき評価がつけられていない人を皆デビューさせたいです。大々的に。

(……そう言えばクリエイターズサポートというものもあったのだな。お金が入ってくるようになったら、やってみましょうか。)

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今ハマっているウェブ漫画も、一番好きなnoteを書く人も、まだプロとしてはデビューされないようで。私は今日もやきもきしながら、世界よ振り向いてくれとスマホに話し掛けています。

生きるのなら幸せに

人生で言われたことのある言葉の第3位くらいは、「生きているのが楽しそう」です。

いとこも「幸せそう」とよく言われるらしく、 「幸せじゃいけないわけ?!」 と家で逆ギレしていたそうです。

ちょっと分かります、その気持ち。

ところで、母親から譲られたものの一つに『興味もない人からライバル視される』という謎の能力があります。 これはもう小学生の時からで、よく訳の分からんライバル視やら嫉妬やらされるよな〜と思っていたら

「私興味もない人からライバル視されるのよね〜」

と母親が言っているのを聞き、それだ!遺伝だ!となった次第です。

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小学生の時は気の強い女の子でしたし、中学校の時は容姿・学業・運動神経すべてにパーフェクトな女の子でしたし、高校の時は、家庭の経済状況が恵まれていて英語がとても上手な女の子でした。よく分からないのです。

私よりもあなたの方が色々な面で恵まれてるし――例えば容姿とか家庭の経済状況とか成績とか――、私の方は別にライバル視したこともなければ嫉妬したこともないのに、どうして?と疑問に思っていました。はっきり言って、私の方は興味すら抱いていない子たちだったので。 でもたぶん、それって私が幸せそうだったからじゃないかと思います。

皆、自分より下の奴が、大して美人でもなくて周りも気に掛けていない、外れてると言われているような奴が、どうしてこんなに幸せそうなんだろうって思ってたんじゃないでしょうか。満足気に生きてるじゃねぇよって思っていたのかもしれません。

でもさぁ、って思います。幸せじゃなきゃ生きていたいと思えないじゃん、って。私は不幸の中でも生きていきたいって思えるほど強くはないので。だから私は全力で自分を楽しませようとするし、幸せだと思える生き方をしようとしています。何でそこに突っ込んでくるかなぁって。

変に周りが見えるって大変だなぁと、勝手に同情したら怒られるでしょうか。 それでも、彼女たちが周りに嫉妬しなくてもいい、自分の幸せを見つけられていますように。勝手に願おうと思うのです。

人間ワイドショー

ワイドショーが好きです。 高校生の頃、テストは嫌いでしたがテスト期間は大好きでした。お昼過ぎに帰って、遅い昼ご飯を食べながらワイドショーを見るのが楽しみで。

ですが、別にスキャンダルや芸能人が好きなわけではありません。 大の大人たちが不倫やら二股やらさして重要度が高そうでもないことをさも重大なことのように騒いでいる、それを見て色々考えるのが好きです。

根掘り葉掘り、専門家が説明しコメンテーターが唸り、他人の過去を他人の表情を他人の気持ちを掘り起こして報道しているのは興味深いというか、平和だなぁという感じです。

関係ないことまで大真面目に調べているのを、それは違うのではということをコメンテーターが述べるのを、テレビの前で一人、ツッコミを入れながら呆れつつ見るのがある種の快感なのです。どんな事件の犯人であろうが不倫した人だろうが『幼少時代を○○で過ごす』とか関係ないし、それ差別に繋がるんじゃないの、とか。犯した罪についてはともかく、どこで過ごしたかを他人にとやかく言われたくないですね、私は。

以前、殺人事件についてのVTRの直後、何も挟まずに「株価も下落しているようですねぇ」と言った会者の顔は思わず見つめてしまいましました。株価も、て。これを聞いて、株価は人の命と同じくらい大事、って子どもが思ってしまっても私は責められません。

山田詠美さんの小説『ぼくは勉強ができない』の主人公のお母さんが発する、印象的なセリフがあります。

「ワイドショウってすごいのねえ。朝帰りと人殺しを同じ時間にやっつけるのねえ」

これに全て集約されているように思います。

ワイドショーは面白いです。いえ、ワイドショーでスタジオにいる人たちが面白いです。それは不愉快さと隣り合わせですけど、人間の業が見える気がします。

ATMの考え

貧しい人は優しいなんて、嘘だと思います。

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自分の暮らしに苦労している時に、誰が自分より裕福な人を喜ばそうと思えるでしょうか。 他人に優しくするなんてことは、自分が満ち足りていないと出来ないわけで、事実、私は苛ついている時や不満がある時は他人に優しく出来ません。精神状態ならまだしも、暮らしに苦しんでいる時に他人に優しくするなんて出来ないと思います。

豪雨の中では一つの傘には一人しか入れないように、貧しければ貧しいほど自分のことに一生懸命にならざるを得ないのだと、ラオスに来て、そう思いました。

ラオス人は優しいと思っていた、とたくさんのブログに書いてありました。私も、そのつもりでいました。 でも実際は、笑ってくれるのは子どもか物売りのおばちゃんで、買い物をすれば水もどうか、果物はお菓子はとまくし立てられ、道を歩けばレストランやゲストハウスから声を掛けられる。

同じラオス人同士であれば、降る雨の量も傘の大きさも同じなので親切にも出来るのでしょうが、自分たちよりも立派で丈夫な傘を持つ外国人には、もう少し雨が降ってもいいと、そう思っているのかもしれません。

私は財布かATMにしか見えないのではと思えてしまいます。

でも、果たして私にはそれを責められるのかと考えた時、ため息こそ漏れてしまっても、責めることなんて出来ません。

私は貧困家庭で育ちました。子どもの頃から、おもちゃやゲームを買ってもらったこともなければ、新しい洋服を買ってもらったことも数える程度です。いつも、羨ましかったです。毎日数百円分のお菓子を買ってもらっている同級生や習い事や塾に通える友達が。 衣食住に困ることはなかったし家庭には恵まれたので幸せでしたが、それでも、子どもの頃はやはりどこか卑屈でした。妹とは分け合っても、他人とお菓子を分け合うことは嫌いでした。

人間は、ある程度満ち足りていないと他人に親切には出来ない生き物だと思っています。それは精神面も生活面も。

だから今の私は、他人にかける小さな親切心を持ち合わすことが出来ています。けれどもし生活に困るようになったら、生きていくために、私は観光客に物を買うように求めるしぼったくりだって幾らでもすると思います。

誰にどう思われたとしても構わないから、生き延びたい。そう思う人を責めるなんて出来ないから、貧しい人は優しいはずだとそう思っていた過去の私を、よく考えろとぶん殴りに行きたいです。